「怖い。もう辞めさせてほしい」。不動産会社の役員として働く傍らで、個人会社も営む加藤明氏(仮名、50代)が、電話口でおびえた声を聞いたのは今年春のことだ。電話の主はシンガポール在住の田中大輔氏(仮名、40代)だった。
田中氏は、加藤氏が節税目的でシンガポールにひそかに設立したコンサルティング会社のダイレクターを任せた人物だ。何事かと事情を聞くと、シンガポール当局から、レターが届いたのだという。
そのレターには「事業実態の乏しいペーパーカンパニーを使い、節税スキームに加担している現地代表には罰金または懲役刑もある」という趣旨の文言が書かれていた。「家族に迷惑を掛けたくない。すぐにでも辞めたい」。田中氏は明らかに動揺した声でそう語ったという。
実際、シンガポールの刑事罰は日本よりも厳しく、執行猶予が付かないことも多い。「数日間、収監されるケースもある」(駐在員)。
仕方なく加藤氏は田中氏の辞任を承諾。今年5月、現地の会社を閉鎖し、シンガポールからの撤退を決めた。
天然資源を持たない東南アジアの小国であるシンガポールは、国を興すために税制優遇策を打ち出し、積極的な外資誘致を行ってきた。実際に法人税率は17%と低く、キャピタルゲイン課税、贈与税、相続税はない。
そのため、これらの税制メリットに着目した世界の実業家や富裕層たちは、2000年代半ばごろから吸い寄せられるようにシンガポールに集まった。著名投資家であるジム・ロジャース氏や米フェイスブック共同創業者のエドアルド・サベリン氏が移住したことでも知られる。
この流れの中には多くの日本人富裕層も含まれており、移住こそしていないが加藤氏もその一人。
ペーパーカンパニーを使った節税スキームは大流行し、雨後のたけのこのようにシンガポールで大量のダミー会社や幽霊会社が乱立していった。
金融インフラが整備され、治安も良い。おまけに税制優遇策も充実している──。
そんな近代的でクリーンなイメージを手にしたシンガポールだったが、ここ数年で、風向きは大きく変化している。それが国家間で協力体制をつくり、国際的な租税回避スキームの全容をつかもうとする動きだ。今年話題になった「パナマ文書」が、その流れを強く、決定的なものにしたのは言うまでもない。
こうしてシンガポールは、過度な租税回避策を規制せよとの世界的な流れに巻き込まれることになった。そして、その流れを加速させる中心に日本があり、血眼になって富裕層を追い掛ける国税庁の姿があるのだ。
冒頭の田中氏をおびえさせたレターをたどれば、国税庁の影がちらつく。
懐に秘めた次の“カード”
『週刊ダイヤモンド』10月8日号の第1特集は「国税は見ている 税務署は知っている あなたに迫りくる徴税包囲網の真実」です。
情報保秘を徹底し秘密のベールに包まれた国税ファミリーは、頂に君臨する国税庁、全国に12ある国税局(沖縄国税事務所を含む)、同524ある税務署で構成されます。
1949年に旧大蔵省(現財務省)の外局として設置され、査察権という強力な武器を手に、政界や財界から官僚、マスコミに至るまで各方面に対し強力なけん制効果を持つ、約5万5000人の大組織です。
国税が今、ターゲットに据えるのは富裕層です。海外に5000万円以上の財産を保有する個人に調書提出を義務付けた「国外財産調書制度」、超富裕層を監視するプロジェクトチームの発足、そして海外の税務当局間で金融口座情報を交換する「自動的情報交換制度」などの“カード”を次々に切り、富裕層の包囲網を狭めています。
一方、国内では全納税者の懐をガラス張りにするマイナンバーという“最終兵器”も手に入れました。今後、マイナンバーと預金口座がひも付けば、所得と資産の把握が捕捉可能となります。
そんな“最恐”組織も一皮むけば、汗と涙で形作られたサラリーマン社会の縮図があります。税務調査先で猟銃を向けられたり、商社マンに小ばかにされたり……。あまり知られていない国税マンの実像に迫ります。