赤い半導体が狙う、東芝技術者の闇
半導体部門で“隠れ残業”が横行
2015年の粉飾会計発覚後、東芝では不正の防止策が実施されてきた。だが、残業時間の管理をめぐり、社員が幹部の意思を“忖度”して行うルール違反がいまだに続いていることが分かった。
東芝の“企業城下町”といってもいい神奈川県川崎市――。「小向東芝町」という町名が存在するほど、歴史的に東芝と密接な関係を持っている街だ。
JR川崎駅を出てまず目に飛び込んでくるのが、東芝の工場を再開発した複合施設、ラゾーナ川崎プラザだ。野外コンサートやビアガーデンといった催しが行われる広場があり、多くの人で賑わう。
その広場を見下ろすように、東芝が入居するオフィスビルがそびえる。これは筆者の色眼鏡かもしれないが、イベントで盛り上がる広場を横目に帰宅する東芝社員の顔色は冴えない。そのコントラストが印象に残っている。
その場所からJR線路を挟んで反対側に東芝関係者が警戒する会社がある。
社名は「JYMテクノロジー」。中国の半導体メーカー、清華紫光集団傘下でNAND型フラッシュメモリを製造するYMTCの子会社だ。同社は東芝などからの技術者を引き抜く拠点となっている。
JYMテクノロジー幹部は「メモリの製造プロセス改善には日本人の地道なやり方が向いている。給料は業界で一番。韓国サムスン電子より高いよ」と話す。
JYMテクノロジーが狙うのは、フラッシュメモリ世界2位の「東芝メモリ(6月に米投資ファンド、米ベインキャピタルなどに売却済み)」の技術者だが、技術者の能力によっては東芝に残るフラッシュメモリ以外の半導体子会社、「東芝デバイス&ストレージ」からも採用する。実際、東芝デバイス&ストレージの元技術者が中国オフィスで働いているという。
JYMテクノロジーには128席分のスペースがあるが、筆者が訪れた8月時点では空席が目立った。同社幹部は「昨年末にオフィスを開設したばかり。これから採用してきますよ」と意欲を見せた。
同社の親会社、YMTCは今年、総額3兆円を投じたメモリ工場を中国湖北省で稼働させる予定で、製造を安定させることが急務となっている。日本人技術者の採用は同社の最優先事項なのだ。
片や、東芝デバイス&ストレージには全く別の問題がある。
筆者は9月上旬から約1カ月間、現地で徹底取材を試みたが、同社では残業が常態化しているようで、通用門から出た社員が近所の中華料理屋などで食事をし、またオフィスに戻るのを何度も目撃した。
筆者がなぜ同社をマークしたかというと、「隠れ残業が横行している」との情報を得たからだ。
同社はパソコンの稼働状況で社員の勤務状況を管理するシステムを導入しているが、その機能をオフにして終電や深夜バスの時間まで働く技術者が多いという。
帰宅する社員への取材を続けると、実態が分かってきた。
ある管理職の技術者は「午後10時までに帰宅することが奨励されている。それ以降は、そういうこと(残業時間を申告しない、隠れ残業)はある」と認めた。
勤怠管理システムを無効にする方法も教えてくれた。パソコンのOS(基本ソフト)を米マイクロソフトの「ウィンドウズ」から「リナックス」に切り替えるのだという。なんとも技術者らしい規制のすり抜け方だ。
別の管理職社員は、「“チャレンジ文化”と言われればそうかもしれない。上司からの指示がなくても皆やっている」と明かした。
なお、隠れ残業をしていると証言したのはいずれも年俸制の管理職で、残業代の不払いとは関係がない。過重労働の有無を確認するための残業時間の申請に虚偽の可能性があるということだ。
同社は2年前に残業の実態調査を行っているが、その後、定期的な調査はしていないという。
同社幹部は、「隠れ残業など簡単にしていいとは思わないし。聞いていない」と話すが、見て見ぬふりをしていたのではないかと勘繰りたくなる。
筆者は、残業自体を否定しているわけではない。東芝デバイス&ストレージは近年、低収益に沈み、社員は減り、個人の負担が増しているのも事実だ。
問題なのは、残業を管理するために導入した勤怠管理システムや、「午後10時までに退社する」というルールが有名無実化していることだ。東芝の半導体部門は不正会計が行われていた主要職場の一つであり、とりわけルール違反をしてはいけない部門のはずだ。
15年以降の東芝の危機の原因は、指名委員会の設置や社外取締役の登用といったガバナンス改革を骨抜きにしたり、非現実的な目標を実現するため不正会計を行ったりしたことだ。そうしたが不正の温床となる風土が残っているとすれば早急に改めるべきだろう。
時代に翻弄された東芝
一体何が起きていたのか?
『週刊ダイヤモンド』11月10日号の第一特集は、「変われぬ東芝 変わる日立」です。
筆者の幼少期は東芝に囲まれていました。といっても、東芝の製品が身の回りにあふれていたというわけではありません。家の裏手に東芝の社員が多く入居する住宅地があり、そこの子供たちと遊んでいたのです。草野球仲間の過半は東芝社員の息子でした。
あるとき一つ年上の友人が「東芝の野球大会でお父さんがホームランを打った!」と自慢してきました。子供ながらに、野球大会があるとは大きな会社だな、それを家族で応援しにいくとは仲のいい会社だな、と羨ましく思ったことが記憶に残っています。
「東芝那須工場」が筆者の地元の栃木県で稼働したのは1979年のこと。筆者はその翌年に生まれました。
ご近所の東芝社員にはエリート(後に工場長に昇進)もいれば、現場の社員もいましたが、子供らは親の役職に関係なく仲良くやっていました。
いま思えば、“一億総中流”を絵に描いたような近所付き合いでした。子供だった私は遊びほうけていただけですからいい時代だったのは当然ですが、東芝那須工場にとっても右肩上がりの時代だったのです。
東芝那須工場は病院で使う検査機器を製造していました。東芝は海外メーカーが支配していたCT市場に参入し、蘭フィリップスなどを追い抜き、世界3強の一角を占めるまでになりました。
ですが、筆者から順風満帆に見えていたのは東芝の医療機器事業だけで、東芝全体では事情が違っていました。
大きな柱だった発電機器などのインフラ投資が一巡し、家電消費も頭打ちになり始めていたのです。東芝は時代に翻弄されつつありました。
時は流れ、現在、かつての東芝那須工場にはキヤノンの看板がかかっています。15年に東芝で発覚した粉飾決算後の経営危機の影響で、東芝から売却されたのです。
医療機器事業を育て上げ、当時、同事業部門トップを務めていた綱川智氏(現東芝社長)は事業売却について「娘が嫁いだ父親の気分。新たな嫁ぎ先で成長すると信じている」と悔しさをにじませました。
同時期に、東芝は家電部門も中国企業に売却し、発電危機から家電まで幅広く取り扱う“総合電機”の看板を降ろしました。
なぜ、東芝は凋落したのでしょう。リーマンショック後に、時価総額でライバルの日立製作所に差をつけられていますが、何があったのでしょうか。
本特集では、東芝と日立の関係者の証言を基に、両社の命運が分かれたターニングポイントを探究していきます。また、両社が今後の成長分野に位置付ける産業用IoT(モノのインターネット)の世界市場で稼ぐための課題を解き明かします。