明るく見えるようになった。特に白がはっきり見えるようになった」
世界で初めてiPS細胞を使った目の手術から1年半。手術を受けた70代の女性患者は、執刀医を務めた先端医療センター病院(神戸市)の栗本康夫眼科統括部長に、こう話しているという。
どんな細胞にもなることができる夢の細胞──。iPS細胞の生みの親は京都大学の山中伸弥教授だ。2006年にマウスのiPS細胞の作成に成功したと発表。その約1年後、山中教授と米国の研究チームがほぼ同着で、ヒトのiPS細胞の作成に成功し、iPS細胞を医療へと応用するための研究は一気に加速していった。
そして、14年9月。iPS細胞の歴史に新たな一ページが書き加えられた。理化学研究所の高橋政代プロジェクトリーダーと栗本部長らが、患者のiPS細胞から作った目の一部の細胞のシートを、患者に移植したのだ。
この手術は視力を回復させる手術ではなく、症状の悪化を食い止めることが目的だった。冒頭の患者の感想が、iPS細胞による効果なのか、それとも、手術時に悪化した部分を取り除いた効果なのかは、まだよく分からない。
それよりも重要なことは、iPS細胞は現実にヒトの治療に使うことができると、この手術が示したことだ。
とりわけ、注目されていたiPS細胞を使った治療のリスクについて、「安全性のエンドポイント(評価項目)を達成できた」(栗本部長)ことの意義は大きい。
iPS細胞が誕生した10年前は「画期的な成果だが、本当に役に立つのだろうか」と考える研究者も少なくなかった。再生医療よりも、薬の研究開発や毒性評価の〝道具〟として活用することが、iPS細胞の現実的な使い道だという見立ても根強かった。
それが、今回の手術によって、「iPS細胞は役に立つという実感が広がってきた。研究は予想をはるかに上回るスピードで進んでいる」(戸口田淳也・京都大学iPS細胞研究所〈CiRA〉副所長)ことが証明されたといえる。
国も1100億円を投じて全面的にバックアップ
iPS細胞を使った再生医療の実用化に向けて、とにかく多くの結果を積み上げていくことを、国も強烈に意識している。
文部科学省が昨年改訂した「iPS細胞研究ロードマップ」では、神経や心臓といった主要な臓器で、ヒトでの臨床応用(臨床研究または治験)の開始時期が「1〜2年後」などと具体的に記されている。
17年以降は、パーキンソン病や脊髄損傷、重症心不全といった病気を治すためのヒトでの臨床応用の研究計画が次々と申請される見込みで、本格的にiPS細胞を使った再生医療の幕が開く。
行政によるトップダウンで研究のゴールを決め、そこに向かって突き進むスタイルについて、研究者の中でも賛否はあるが、「実用化を優先するためには効果的」と評価する声が多い。
国は、資金面においても〝国策〟として全面的にバックアップする。山中教授がノーベル生理学・医学賞を受賞するや、12年の補正予算で242億円、さらに13〜22年度の10年間で合計1100億円を投入するという、かつてないほどの力の入れようだ。
iPS細胞による再生医療研究が盛り上がりを見せる中で、製薬会社をはじめとする多くの企業も、乗り遅れまいと一気に勝負に出始めた。
例えば武田薬品工業は、CiRAと手を組んで参入し、共同プロジェクトを立ち上げた。また、タカラバイオと富士フイルムホールディングスはそれぞれ、ヒトiPS細胞を販売する海外のバイオベンチャーを買収。リプロセルも含めれば、ヒトiPS細胞を販売する大手3社は、全て日本企業の傘下となった。
現時点で、iPS細胞をはじめとする再生医療の市場規模は、世界の医薬品100兆円市場の1%にも満たない。
しかし、経済産業省の予測によれば、20年に1兆円、30年に12兆円、そして50年には38兆円にまで拡大するとみられている。
さらに言えば、製造機器や消耗品、物流といった周辺産業の市場規模も、50年には15兆円に達すると見込まれており、広義の再生医療市場は世界で53兆円にまで達する見込みだ。
山中教授がiPS細胞に関する論文を発表してから今年で10年。研究の最新情報、巨大市場は沸騰する。
53兆円市場を目指して企業も参入 沸騰するiPS・再生医療市場
『週刊ダイヤモンド』6月11日号の第1特集は「世界を変えるiPS」。2006年に京都大学の山中伸弥教授がマウスのiPS細胞の作成に成功したと発表してから今年で10年が経過しました。
そこで特集では、この10年間でiPS細胞を始めとする再生医療の研究がどこまで進んだのか、「目」「心臓」「肝臓」など部位別に研究者に直接取材、現状を分かりやすく解説しました。
また、再生医療市場は2050年までに38兆円、周辺産業まで含めれば53兆円まで拡大すると予測されています。そうした肥沃なマーケットを前にして、医療や薬の研究のみならず、富士フイルムやニコン、三井不動産など異業種も数多く参入、覇権争いを繰り広げています。企業たちの熱い戦いを追いました。
とはいえ、同じ「再生医療」と言いながら、美容系を中心に怪しい治療を行っているクリニックがわんさかあります。怪しいで済めばいいのですが、危険な治療も少なくありません。怪しいクリニックを見抜くコツまで含めてお伝えしました。
こうした再生医療は遺伝子治療の一つ。そこで、受精卵での実験まで始まったゲノム編集を始め、遺伝子治療の今を追いかけました。そして今、ちまたで大人気の「遺伝子検査」を40代の本誌記者が実際にトライ。その結果を赤裸々に掲載し、検査の読み方、受ける際の注意点などを掲載しました。
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