2015年12月中旬、冬休みを前にした京都大学のキャンパス。理学部数学教室の伊藤哲史准教授(整数論)は、約50人の学生を前に、黒板いっぱいに数式を書き込んでいた。
教科は「線形代数」。理系の学部生だったら、いやでも取らなければならない数学の必修科目だ。だが、伊藤准教授がこう話すと、嫌々授業を受けていた学生たちの頭がふと上を向いた。
「ここに示したのが、実は、グーグルの検索エンジンに使われている数式なのです」
まさか、こんなところに数学が使われているとは、思いも寄らなかったのだ。
実は、伊藤准教授は10代のころからコンピュータにのめり込むマニアだった。1996年には、世界中の高校生がコンピュータのプログラミング能力を競い合う「国際情報五輪」に参加して、日本人初の金メダルに輝いた。そんなコンピュータ青年が感動したというのが、当時公開されたばかりの米グーグルの検索エンジンだった。
「多くの人が役に立たないと思っている数式を、新しいサービスに落とし込む発想を生んだ点で彼らは天才的でした」
ページランク(PageRank)
──。インターネット上にある無数のウェブページについて、重要性の高いものから上位に表示されるよう、数学的に算出するアルゴリズムの名称だ。
ウェブページの「ページ」と、グーグル創業者の一人であるラリー・ペイジの「ペイジ」を駄じゃれのように掛け合わせたこの技術こそ、今や時価総額で59兆9100億円(1㌦=120円換算)という、世界を代表するテクノロジー企業の出発点になっていたのだ。
巨万の富をもたらした検索エンジンの仕組みは、冒頭のように理系学生であれば、誰もが学ぶ数学で成り立っていたのだ。グーグルの慧眼は、急成長するインターネットの世界に、数学が応用できると「ピンときた」点にあるだろう。
日本ではあまり知られていないが、グーグルは「数学の塊」のような企業だ。まず、社名からして、10の100乗を意味する「グーゴル」をペイジが綴り間違えたことに由来する。
そして、共同創業者であるセルゲイ・ブリンと、ペイジの2人は、共に親族に数学者がいる「数学サラブレッド」であるユダヤ人家系に生まれている。
旧ソ連出身のブリンの父親は数学を教える大学教授、母親は宇宙分野の研究所などで働く科学者だった。米国生まれのペイジも、人工知能を研究する大学教授の父と、コンピュータ分野で教鞭を執っていた母親に育てられている。
幼いころから数学的な素養を培ってきた2人が、IT産業の集積地である米シリコンバレーの大学院で知り合ったことが、数学とビジネスの新しい化学反応を引き起こしたといえるのだ。
そして現在、グーグルは世界中の名門大学の数学人材を雇いまくっている。
本誌の調査によると、米スタンフォード大学や米マサチューセッツ工科大学(MIT)など名門5大学に絞っても、数学を専攻した社員数は少なくとも延べ338人を数える。数学の応用分野であるコンピュータサイエンスも含めると、延べ5000人を超えるもようだ。
そんなグーグルの応用範囲はオンライン広告から自動運転など交通インフラにまで及び、幅広いサービス分野を数学的手法で切り開く頭脳集団になっている。
グーグルとウォール街が数学者の争奪戦
だが、数学のスキルを求めるのは、グーグルだけで起こっているような特殊な話ではない。
米国では、多くのビジネスで数学者たちが暴れ回る時代が訪れている。それを象徴するのが、米キャリアキャストが毎年発表するベストジョブのランキングだ。
数学者の順位は2000年以降上がり続け、14年にはなんと1位にまで上り詰めた。15年は3位に落ちたが、上位には数学を用いる職種が軒並みランクインしている。
では、どんな業界が数学を必要としているのか。グーグルのほか、米マイクロソフトや米フェイスブックなどインターネット業界が目立つが、もう一つ際立っているのが、米投資銀行のゴールドマン・サックスなどに代表される金融業界だ。
実は、世界の金融業界の中心地である米ウォール街は、80年代から数学との関係を深めてきた場所だ。NASA(米航空宇宙局)によるロケットの打ち上げ計画の凍結などの影響で、数学や物理学の博士号を持つような人材が、大量に流れ込んできたのだ。
中でもクオンツと呼ばれる分析家は、数学を駆使して金融市場の動向を予測し、多額の利益をもたらす人材として異彩を放った。
金融商品の価格差を使った原始的な取引から始まり、次第にランダムに見えるチャートから特定のパターンを見破る洗練された分析に進化してゆく。その心臓部ともいえる数学のアルゴリズムは、いわば利益を生み出すための「秘密の計算式」であり、それが故にクオンツは徹底した秘密主義を通してきた。
「金融業界の人材を雇っても利益は上がらなかったが、科学者を採用するとうまくいった。それが種明かしです」。天才数学者であり、クオンツの中でも伝説的存在のヘッジファンド、ルネッサンステクノロジーズの創業者であるジム・シモンズは昨年、公の場でこうコメントしている。
クオンツとヘッジファンドの猛威は、08年のリーマンショックによる甚大な損害で沈静化したとはいえ、今も数学スキルを持った人材の有力な就職先の一つだ。
このほか、暗号分野で数学が必要な国防総省や国家安全保障局(NSA)などが、優秀な数学者をこぞって招き入れており、国も数学者の重要性を認識している。
日本のビジネス界でも今、ようやく数学の重要性を認識する動きが見え始めてきた。
「数学がビジネスに必要となっている分野は、古くは統計学、少し前だと金融、今は情報分野です」
トヨタ自動車やファナックが出資する屈指の人工知能ベンチャー、プリファード・ネットワークスの岡野原大輔副社長はこう話す。
自動運転に必要な「機械学習」を中心に、同社は高度な数学的アルゴリズムを操れる逸材を雇い入れ、業界の最先端を走っている。
IT業界だけではない。「今後、数学と無縁でいられる分野はなくなる」と、国立情報学研究所の河原林健一教授は指摘する。
製造、インフラなどあらゆるビジネスがITを通じてサービス業化する中で、データ量は、人間やパソコン機器では到底追い付けないレベルにまで爆発的に増加しており、そこに向き合うには数学的発想が必要なのだという。
これは、ハードではなく、ソフトの時代に必須なのが「数学」と言い換えられるかもしれない。
とはいえ、いくら数学が必要といっても、天才の研究者や技術者がやればいいだけ、と思ってしまうかもしれない。だが、ビジネスマンにとっても、数学スキルは間違いなくあった方がいい。
数学者が創業したことでも知られる世界最大のインターネットインフラ会社、米アカマイ・テクノロジーズのマイケル・アファーガン上級副社長はこう指摘する。
「日常的に数学を操らないビジネス側の人材でも、今後は数学の素養が必要になる。なぜなら、デジタル時代には、数学が急速に共通言語となってくるからだ」
学び直しから応用まで幅広く対応
『週刊ダイヤモンド』1月23日号の第1特集は「使える!数学」です。
カネを生み、ビジネスを動かす数学は、ビジネスマンとっても「最強の武器」「究極の教養」となります。
取っ付きやすいものではありません。中学高校時代にどこかでつまずいて、苦手意識を持っている人のほうが多いでしょう。
しかしながら、苦手なままにしておくのは損です。もったいないことこの上ない。ビジネスマンとして生き抜いていくために、手に入れるべき必須アイテムなのです。まずは基本のポイントを押さえ、ざっくりと理解するところから始めましょう。
特集は、初歩の初歩の学び直しから最先端の応用編まで網羅しました。奥深くも刺激的な数学ワールドを理解するための総合ガイド、使いこなすための虎の巻です。ぜひお読みださい。