日立復活の裏に「二番底危機」や
“虎の子上場子会社”の抵抗があった
日立製作所は、かつて「総合電機」を名乗っていたパナソニックや東芝に比べて、頭一つ抜けた存在になった。
リーマンショック後の2009年3月期決算では、7873億円という日系製造業史上で過去最大の最終赤字に沈んだが、そこからV字回復を果たし、現在の時価総額は4倍超に達している。
日立は収益力を改善しただけではない。事業の買収と売却を繰り返して、旧来の製造業からデジタル技術を使ったソリューション事業へと本業をシフトしてきたのだ。
しかし、日立の改革は外部から見えているほどには順風満帆ではなかった。
東原敏昭会長兼CEO(最高経営責任者)は14年に中西宏明氏から社長を引き継いだ後、社内の実態を知るにつけ、「このままでは日立がもう一回赤字になるという危機感をひしひしと感じていた」とダイヤモンド編集部の取材に対して明かしている。
リーマンショック後、倒産の危機を経験したばかりにもかかわらず、他人に任せておけば何とかなるという弛緩した意識が蔓延。「大企業病が払拭できておらず、いわゆる茹でガエル状態だった」(東原氏)というのだ。
カリスマでも崩せなかった牙城
日立ハイテクの支配権握った新社長
順調に見えた日立グループの組織再編でも、グループ企業から強い反発を受けてきた。抵抗勢力の1つが、“虎の子上場子会社”だった日立ハイテクである。
あまり知られていないが、デジタル化とのシナジーが見込めない事業の売却を進めていた中西氏は日立ハイテクの経営陣に、「半導体装置事業は外へ出したほうがいい」と呼び掛けていた。
しかし、日立ハイテクは中西氏の提案には従わなかった。同社は日立グループの中でも独立心が強く、利益も出ていたため、親会社の意向を無視するだけの「力」があったのだ。
中西氏といえば、日立のV字回復の立役者であり、社内での求心力を高めていたところだった。そのカリスマ経営者をもってしても、日立ハイテクの牙城は切り崩せなかったのである。
日立グループにはリーマンショック前、22社もの上場子会社があった。同グループは自立心が強い独立王国の集合体であり、日立本体もそれを良しとしていた。
だが経営危機後、川村隆、中西、東原の歴代3社長は、子会社が低収益事業を温存することを防ぐために経営のグリップを強め、中央集権化にかじを切った。
中央集権化の成果の一つが、子会社の統合や売却である。とりわけ上場子会社については、親会社である日立と少数株主との間に利益相反が起きやすい。そのため、売却するか完全子会社化するかの経営判断は急務でもあった。
日立ハイテクは最後に残った上場子会社4社のうちの1社。日立ハイテクの組織再編は、日立にとって、大きな懸案の一つだったのだ。
そして、その「手ごわい子会社」を説得し、ついに完全子会社化を実現したのが、6月に日立社長に就任した小島啓二氏である。
結果的に、日立ハイテクは切り売りされるのではなく、日立本体に取り込まれることになった。それでも、日立ハイテクの社員に平穏な日々が訪れるわけではない。
日立は、完全子会社化によって日立ハイテクの支配権を手にした上で、構造改革を行おうとしているのだ。
社長交代、米IT企業巨額買収で
共通するパナソニックと徹底比較
『週刊ダイヤモンド』10月2日号の第1特集は「日立財閥 最強グループの真贋」です。
特集では、日立製作所が完全子会社化した日立ハイテクで行おうとしている構造改革の全貌を解明。
また、日立と同時期に米IT企業の巨額買収と社長交代を行ったパナソニックや、デジタルトランスフォーメーション(DX)事業で先行する独シーメンスといった競合他社との実力差を明らかにします。
日立は、低収益事業やデジタル化と相性の悪い事業を売却し、DX事業で世界に打って出られる事業ポートフォリオを構築しました。そこに到るまでには売却されたグループ会社社員らの痛みや苦しみがありました。
小島新社長が、歴代社長から受けたバトンは極めて重いものがあります。「世界のDX市場でグローバル大手に勝つ」という日立の悲願に向けて走り始めた小島氏が大ゴケすれば、リーマンショック後の日立の努力は水の泡になってしまいます。
それだけではありません。日立の戦略が頓挫すれば、「脱製造業」化に舵を切り、デジタル技術を使ったソリューションを提供するという国内製造業の生き残りシナリオに疑問符が付くことにもなます。
『週刊ダイヤモンド』10月2日号の第1特集は、国内製造業の“最後の砦”、日立の事業構造改革の真贋に総力取材で迫りました。