週刊ダイヤモンド 経済・金融・企業情報をタイムリーに伝えるビジネス誌。定期購読やバックナンバーの購入もできます。
トップ ■ 連載 第三十八回「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル
 2005年11・12月号

憂国放談    ............... ■今回の憂国呆談は、宮台真司氏をゲストに迎え、東京・八重洲ブックセンターにて公開鼎談として行われた。小泉自民党の圧勝に象徴的に表れる日本の危機的状況を、現代日本を代表する3人の論客が熱く深く語り尽くす。本誌版をさらに充実させた完全版を一挙大公開!
...............


不安から自律へ【完全版】  photo by K.Sumitomo


●小泉現象をもたらしたもの
photo


浅田 彰 今回は社会学者の宮台真司さんをゲストにお迎えして、小泉自民党の圧勝に終わった2005年9月の総選挙、そこに象徴的に現れる政治的・社会的状況を多層的に読み解いてみようという趣向です。

田中康夫 宮台さんは自分のブログで総選挙に関する文章を書いていて(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=302&catid=4)、小泉の政治手法を「不安のポピュリズム」としていますよね。

宮台真司 地域や企業という従来の共同体が空洞化して社会的流動性が高まると、それに不安を感じる浮動層が生まれます。小泉は彼らの不安を煽る一方、鎮められるのは自分しかいないとする。この単純な戦略に乗せられる層が増えている。民度の低さの表れですね(笑)。それに対抗するには、実存において内発性に基づき、コミュニケーションにおいて信頼に基づくような、生き方を目指す層が育たなければならない。これは欧州的とも言えますが。

田中康夫 日本は物質としてのヨーロッパ、たとえばドイツの車やイタリアの洋服は採り入れたけれど、精神としてのヨーロッパは採り入れてないんだね。いわば精神的な自律という部分。たとえばパリの凱旋門には12本もの道路が集まってる。でも信号はない。ラテン的運転で誰もが突入してくる。で、唯一あるのは「右優先」というルール。その暗黙知の下で問題も起きず、別の道へと去っていく。まあ、ルールなんてものはなるべく少ないほうがいい、最後は自律した人間同士に任せるって考え方の象徴ですね。
 いくら法律で雁字搦(がんじがら)めにしても、必ず抜け道を探し出すのね、人間は。昔はヨーロッパだけでなく、日本でも「お天道様の下では悪いことをしちゃいけないよ」と暗黙知的な自主自律が大切だと捉えてきた。ところがビジネス・スクール的なマニュアルですべてに対応可能、とアングロサクソン的に思い込むようになったのが不幸の始まり。


宮台真司 ヨーロッパが少なくとも我々より優れているのは「精神の唯物的な基礎」について敏感であるという点でしょう。小泉自民党的なるものに象徴される動きは、簡単に言えば、不安な「ヘタレ」が不安を鎮めんとして寄りかかる乗り物が、実は不安を広げる当体であるという逆説です。あるいは、幸せになろうとして選ぶ選択が、実は自らを不幸なままにとどめるプラットフォームを翼賛する結果になっているという逆説ですね。そうした逆説が戦後順次広く深く浸透していることに、どうも日本的なものの中に棲む連中は気づいていないらしい。親米主義に見える吉田茂や白州次郎が持っていた敏感さがどんどん失われている。そうした精神の唯物的基礎の崩壊に鈍感な輩が、精神ばかり噴き上がることで衰弱していくという、非常に滑稽でバカバカしい事態が進行している。なので、もうこの国はダメだと僕は思っています(笑)。

浅田 彰 僕と田中さんも先月の対談でそうした状況をマゾ的と言ったし、呆談をまとめた本には『ニッポン解散』なんてタイトルを付け、もうこんな国は解散してどこかに併合してもらおうなんて言ってたわけですけどね(笑)。
 ここで世界的な状況をざっと見直しておきましょう。1970年代末に福祉国家が破綻すると、英米ではサッチャーとレーガンが登場し、いわゆる新自由主義(ネオリベラリズム)で弱肉強食的な市場原理への回帰を推し進めた。同時に、身軽になった「小さな政府」が外に向かっては「強い国家」として振る舞おうとし、それは新保守主義(ネオコンサヴァティズム)につながっていく。つまり現在のネオリベ/ネオコンの方向というのはその頃から出ていたわけです。その後の英米では揺り戻しがあり、初期のブレアやクリントンは、アンソニー・ギデンズの言う「第三の道」路線をとろうとする。右でも左でもなく、資本主義でも社会主義でもない。市場経済を認めたうえで、そこにソフトなセイフティ・ネットを張っていこう、と。しかし、それも中途半端に終わり、ブッシュ・ジュニア以降ネオリベ/ネオコンが他を圧倒するようになってしまったわけです。他方、日本では、1980年代に中曽根康弘がサッチャー=レーガン路線で改革を試みたものの、国鉄や電電公社の民営化くらいにとどまり本格的改革には至らなかった。最近になってやっと、小泉純一郎がブッシュ・ジュニアと組んでかなり純粋なネオリベ/ネオコン路線を突っ走っているわけです。こういう経緯ゆえに、「第三の道」路線がまともに検討される余地もなかったということですね。
 ネオリベというのは、とにかく市場に任せておけばすべてうまくいくというので、内に向かっては弱者切り捨てで「小さな政府」を志向する。ところがネオコンのほうは、外に向かっては「強い国家」として自己主張しようとする。これは一見矛盾しているんだけれども、宮台さんの言うように、ネオリベ的な市場競争で落ちこぼれた弱者がネオコン的な国家幻想に拠りどころを求めるという逆説がある。それが小泉人気につながっている感じがしますね。



●「ゆりかごから墓場まで」の崩壊

田中康夫 『ハードワーク』という単行本があります。著者はポリー・トインビーという英「ガーディアン」紙の女性記者で、歴史学者アーノルド・J・トインビーの孫娘。イギリス政府の定める最低賃金で生活できるかどうかを、低所得者層の住む地域に移り住んだ彼女が実体験する様子を描いたルポルタージュです。彼女自身は非常に優越感をもったジャーナリストという感じで、私は向こう側に生まれなくてよかったと結局は言ってるようにも思えるんだけど、内容的には非常に考えさせられます。イギリスではサッチャリズム以降に形成された階層社会が固定化し、いったん下流になった人は就職でも結婚でも中流に上がれない。というか中流が崩壊しちゃってる。で、そういう人たちが反旗を翻すかというとそうじゃなく、まさにピラミッドの底辺のサティアンでお互いが助け合うような状況を結果として自分で選んでしまっている。森永卓郎はこの本を読んで震えがきたと言っていたけれど、それは同じことが日本にも起きつつあるからでしょう。
 僕が中学生や高校生だった当時の教科書には「イギリスは社会福祉の国でゆりかごから墓場まで」と書いてあった。それ自体はけっして悪いことじゃなかったはずです。ただし、そこまでの社会保障がある以上、人々はまさに自主自律・自己責任でないといけない。たとえば僕が住民だった長野県泰阜村は人口2000人で高齢化率が四割だけれど、村の年間予算20億円のなかから約1億円を捻出して介護保険の制定前から独自の訪問介護や配食サーヴィスに使ってきた。村長の松島貞治は、村で生まれ育った人たちが、その原風景のなかで家族や地域の人に見守られて天寿をまっとうできるように手助けすることこそが最大の行政サーヴィスだと言っている。
 真のゆりかごから墓場までというのは、そうした共助の努力ではないでしょうか。無論、翼賛的な共助ではなく。けれども、一人ひとりに自主自律・自己責任の精神がないと、いつの間にか既得権益にあぐらをかいた労働組合的な怠惰と無駄が生じてしまう。で、サッチャリズム的な優勝劣敗的「改革」へ陥ることになりかねない。日本の今の状況も同じでしょう。


浅田 彰 戦後の先進諸国では、労働者が資本によるテーラー・システム的な管理を受け入れるかわりに、それによって生み出される経済成長の果実を両者で分け合おうというフォーディズムの下で、「ゆりかごから墓場まで」と言われるような福祉国家が目標とされた。しかしグローバル化が進み、冷戦も終わって世界中の国がどんどん競争に参入してくると、先進国一国の内部だけで資本と労働が妥協するというスキームは成立しなくなる。当然、古い福祉国家は破綻するわけです。
 とはいえ、ここで二つのことを強調しておく必要があります。一つは、日本の政府はもう相当に小さいのだということ。ネオリベの元祖であるアメリカやイギリスの政府でさえ日本よりずっと大きい。もちろん、これまでの官僚制の非効率や腐敗は批判されてしかるべきですが、政府をもっと小さくすれば問題はすべて解決する、それが改革だ、という言説は乱暴すぎます。二つ目は、たしかに国家にすべては任せられないとしても、個人がバラバラにアトム化された状況、社会学でいうアノミーみたいな無秩序状態でやっていけるのかということです。それはやはり無理なので、公的な国家なりネットワークなりの果たすべき役割がある。それによって安心を確保するということが、田中さんの言ったことにつながるわけですね。

photo

宮台真司 それを受けて、さらに大枠を補完しましょう。僕は少し前にイスラエル元閣僚であるナタン・シャランスキーという人の『なぜ、民主主義を世界に広げるのか』という本の日本語版解説を書きました。これはネオコンの聖典と呼ばれています。シャランスキーはそのなかで、1980年代前半にレーガンが採用したアンチデタントを称揚しています。実は今日の問題の根源は、このアンチデタントの枠組みにあるんですね。少なくとも1980年代に入った頃には社会主義に対する幻想が東側でも西側でも消えていました。もちろんその前にソルジェニツィンによるノーメンクラツーラ批判などがあったんですけどね。要は、一部の特権階級が財も情報も独占するというバカげた状態に幻滅が広がっていた。そうした時代的な空気の変化を背景にして、もはやデタント(緊張緩和政策)の時代ではない、徹底的に東側を追い詰めれば自壊するだろう、とレーガンは考えます。ここで左右の図式が一回崩壊するんですね。この場合の左右とは、資本主義を翼賛するのが右で資本主義に反対するのが左だという最も素朴な図式です。この左右図式が崩壊したあとどうなったかというと、面白いことに、国家を翼賛するか否かという図式へとシフトしたわけです。
 左翼の一方は、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に象徴されるような恣意的閉鎖性を示す国家を批判する方向に行き、これはネグリ&ハートの『帝国』という本に結実します。たとえば一国の左翼政党や社民政党が、自国労働者の枠内で再配分を要求するのは誤っている、と。かわりにマルチチュード(多元的群集)──東郷健がいう「雜民」にあたりますが──が賞揚されます。ポストモダン左翼ですね。左翼の他方は、それとは別にリベラル左翼というのがいて、これは古典的に弱者を手当てする再配分を要求していて、組合内部などにいまだに存在します。旧左翼ですね。
 同じく、右翼も、ネオリベのような国家極小化と優勝劣敗図式を主張する保守と、旧来の日本にもあった利益団体主義(コーポラティズム)的なものを翼賛するような保守──これは国家共同体主義的保守と言ってもいいですが──の二つに分岐したわけです。日本国内の言葉遣いでは、前者が新保守で、後者が旧保守になります。
 そうすると、ある種のポストモダン左翼、つまりアンダーソンからネグリ&ハートにつながるグローバル化を支持する左翼と、国境を越えた自由競争と規制緩和を唱導するネオリベ保守とが、国家を相対化する方向で足並みを揃える。それに対し、旧来の組合主義的な左翼と、旧来のコーポラティズム的な保守が、国家共同体主義的な方向で足並みを揃えることになります。
 でも実は、国家を相対化するか否か、裏から言えば国家を翼賛するか否か、という二つの選択肢は、対立項ではなく相互補完的です。〈生活世界〉でまかなわれてきた便益授受や快楽授受が全て〈システム〉から調達されるようになる近代成熟期=後期近代。そうした社会では入替可能性という意味での流動性が高まり、必然的にグローバル化します。過剰流動性ゆえに不安になったヘタレは国家に依存したがります。国家相対化的な過剰流動性が国家依存的心性を過剰生産し、国家依存的心性が過剰流動性をサポートする、という相互補完性が生まれます。国家からの自由を要求するネオリベと、国家による強権発動を要求するネオコンが一見すると矛盾するのに両立する不思議は、こうして説明できます。
 しかし、一方でグローバル化ゆえの過剰流動性で不安なヘタレが量産され、量産されたヘタレがグローバル化を担保する国家権力を翼賛するというマッチポンプは、いわばグレゴリー・ベイトソンの言う「分裂生成」です。本来は矛盾するものの相互依存なので、相互増幅していくうちに、やがてカタストロフィが訪れます。移民問題が典型です。グローバル化ゆえに移民が要求され、移民増大ゆえに不安が増幅され、不安ゆえに閉鎖的愛国主義が呼び出されて移民排斥運動となり、しかし同じ愛国主義が国力増強のためのグローバル化を要求する。僕は、これはやばいと以前から思っています。
 この状況は、先ほど言った「不安な人間たちが、不安を増幅するような装置に、不安を鎮めるために寄りかかる」という図式そのものです。日本に限らず、過剰流動性に無防備に身をさらす国には、どこでも生じがちなことです。その意味で、国家主義とグローバル化を対立項だと考えていると事態がよく飲み込めなくなってしまうでしょう。
 この分裂生成を構成する「矛盾するものの相互強化」を押しとどめるには、両方の要素をともに緩和する必要があります。具体的には、一方で米国流グローバル化の動きを緩和し、他方で国家依存的心性も緩和する必要があります。それが僕がずっと言ってきた「自治と補完の原則」です。この必要性を認識する者は、なぜか日本にはほとんど存在しませんが、ヨーロッパには存在する。なので、少しは欧州主義を見習ったらどうかと、言いたくもないことも言わなきゃいけない状況になるわけです(笑)。
 自治と補完の原則とは以下のようなものです。まずは顔の見える範囲で事態を解決する。解決できないものは少し上の単位を持ち出してきて解決する。だんだんレイヤーは上にのぼっていくんだけど、国家にとどめずに最終的には国家連合にまで主権移譲的な図式を展開していく、と。これが原型的な欧州主義的発想で、牽強付会ですが似たものは初期のアジア主義者にも存在したと僕は考えています。
 いずれにしても、過剰流動性にオロオロし、何かというと国家を呼び出して「監視カメラをつけろ」「警察を増員しろ」とほざくヘタレ右翼やヘタレ保守を量産しないためにも、単にイデオロギー批判に留まるのでなく、ヘタレ右翼やヘタレ保守を量産しないような唯物的な構造を作っていかなければならないだろう、それが保守というものの本義だろう、と僕は考えているわけです。



●アメリカ翼賛という図式

田中康夫 浅田さんと僕の対談が始まった頃、上半身の浅田彰と下半身の田中康夫で超合体ロボットとか言ってたんだけど(笑)、今の宮台さんの話は上半身のもっと上のほうから出ちゃったような感じもあるので、もう少し話を簡単にしましょう。浅田さんがさっき言った小さな政府という代物だけど、僕は「官から民へ」という言葉が謎で仕方ないんです。たとえば道路公団民営化というけれど、民営化して六社になって、結果として全体の役員の数は増えてしまう。さらに情報公開の対象にならないから給与から何からすべて闇の中。さらには膨大な用地を使って何をしようとも自由。だからキャリア官僚にとっては美味しい。オリックスの宮内義彦にとってもね(苦笑)。こんなミーイズムな「民」に果たして意味があるのか。やっぱり「官から公」あるいは「民から公」でなければいけない。日本は公と官が一緒だと思っているけど、公=パブリックというのは人の体温があって、人の顔があるもの、自主自律、自己責任である人たちの集合体なんです。人びとが自律的であり続けるなら、サッチャリズムも要らない。実は、サッチャリズムを求める人、あるいは小泉・竹中的なものを求める人というのは臆病なんですよ。宮台さんの言う「ヘタレ」というか。自律できない臆病な人たちが強いものを求めているということですね。実は護送船団横並びな記者クラブのメディアの人間もね。だから戦前と同じ権力にこびる報道の構図が生まれている。

宮台真司 田中さんがおっしゃるような構図には、やはり唯物的な基礎があるんです。たとえば吉田茂の保守本流図式というのは、国力の乏しいなかで戦後経済復興に専念すべく、できるだけ再軍備は避けてアメリカに基地を貸す代わりに日本を守ってもらいましょうというもので、これは「戦略的な対米依存」と言える。ところが、これにちょうど対応しているのが、アメリカによる日本のサポートです。戦後の日本が加工貿易に基づいて復興できたのは、アメリカが1ドル360円という円安の固定相場を維持してくれたからです。ちなみに沖縄は返還前までB円といって1ドル110円だったので製造業が壊滅し、今日に至っているわけです。さらに、加工貿易のアウトプットである工業製品に対し、アメリカは市場も開放してくれた。あり得ないような親切さです(笑)。
 こうしたアメリカの全面的サポートで日本は戦後復興を遂げたわけですが、70年代に入って高度経済成長が達成されたとき、吉田茂の本義に従って「戦略的な対米追従」から離脱しようとした。それが、田中角栄による日中国交回復と対中東積極外交の展開だったわけです。ところがこれがキッシンジャーを激怒させ、角栄はアメリカによって潰されてしまう。田中角栄は、吉田茂と同じく「恩義は弱み」ということをよく知っていた。だからこそ、それから離脱しようとしたけれど失敗してしまいました。
 実際「恩義は弱み」。ゲーム理論でいえば、マクシマックス(利益最大化)原理に基づく外交とマクシミン(危険最小化)原理に基づく安全保障は別の原則なのに、「恩義は弱み」ゆえに、日本では外交が安全保障に従属してしまいます。「恩義は弱み」の危惧どおり、アメリカはしばらくすると農産物自由化を日本に要求してきます。その果てが牛肉オレンジ自由化、あるいは大店法規制緩和、それらに続く年次改革要望書による要求の突きつけ制度、1995年の阪神淡路大震災を口実とした建築基準法の規制緩和、そして今回のBSE問題の手打ちです。
 このBSE交渉は国辱的です。全頭検査を廃止し、生後20カ月以下の米国産牛肉は検査せずに輸入するという図式ですが、これはなんと2004年10月の段階で外務省の某官僚が絵を描いてアメリカに提示したものです。ただし数字は30カ月。そのあと30カ月を厚労省と農水省が何とか押し戻して20カ月にした経緯があります。だいたいこの交渉は、アメリカの国務省が関わっていないのに日本の外務省が関っているというだけで、国辱的です。アメリカ側は農務省、日本側は農水省と厚労省で交渉するべきでしょう。ところが日本側の最高エージェントは外務省。その下に厚労省と農水省が下働きする。だから「ニューズウィーク」が日本はアホだと書いている。たしかにアホそのものです(笑)。
 しかし、これも単なるアホというより、さっきから言っている唯物的基礎があるわけです。アメリカによる戦後(とりわけ日本の高度経済成長後)の対日政治経済政策が、我々のフリーハンドをどんどん削り取ってきたんです。関岡英之さんが取り上げていますが、建築基準法改正によるアメリカのツーバイフォー住宅の解禁が、いい例でしょう。解禁によりアメリカ産の木材や建築部材がどんどん輸入されるようになりました。組み立て屋になり下がった日本の大工さんは収入減で失職、内装屋や門扉屋に変わっていく。尺貫法は途絶し、和風軸組建築は過去のものになります。同じ延べ床面積で和風建築を建てようとするとツーバイフォーの3割増〜5割増のお金を出さないといけなくなった。
 だから全国をフィールドワークしていて気がつくことですが、90年代半ば以降の新しい集落はすべてツーバイフォーです。ただしアメリカが今でもツーバイフォー住宅を買えと強制してるわけじゃない。僕たちが乏しいお金で快適な住宅をつくろうとすると、ツーバイフォーを買ってアメリカを翼賛せざるを得ないんです。その結果、街並みも動線もずたずたになりました。俗に言う「縁側の消滅」ですね。こういうのを僕たちはアーキテクチュラル(建築家的)な権力と呼びます。相手に命令するのでなく、自由に振る舞わせた結果が都合のいいものになるようにプラットホームをつくっておくことです。
 他にも例は挙げられます。僕たちが美味しい朝食を摂ろうとすれば、ケロッグを食べて、サンキストのオレンジジュースを飲む。昔ながらのみかんジュースが何となく田舎くさい味だと感じるように既に慣らされています。私たちが幸せな朝食の時間を過ごそうと思うとオートマチックにアメリカをサポートしてしまうわけです。この辺に僕たちの非常につらい状況があります。現今の外交官や政治家がアホだというだけではなく、国民の末端レヴェルに至るまで「自分の幸せ追求がアメリカを翼賛する」方向に変わっているのです。
 そうした変化が如実になったのは、特に97年の日米安保共同声明以降です。既に述べた通り、冷戦体制の終焉を踏まえたアメリカは、安全保障を人質にして外交を自在に操縦するという方向で日本に臨むようになります。操縦の目標は官僚から庶民に至るまで「自分の幸せ追求がアメリカを翼賛する」ようなプラットホームを作ること。僕はそれが分かったので、99年の145回通常国会で盗聴法や国旗国歌法や憲法審査会設置法や周辺事態法などが成立しようとしていたとき、左翼が「これは国家権力の横暴だ」とかバカなことを言うので、あらゆる集会で僕は「そうじゃない」と言い続けました。では何か。答えは日本の官僚組織における権力追求のモードが従来とは変わったことです。二つあります。一つは、周知の通り、金から情報に利権リソースが変わったこと。もう一つは、永続的対米追従を前提にした利権追求ゲームがメインになったこと。「官僚の利権追求が自動的にアメリカを翼賛する」わけで、「幸せ追求がアメリカ翼賛になる」図式の応用形です。
 フルブライトをはじめとするアメリカの留学制度も狙いは同じです。目的は、各国にアメリカが大好きで、かつアメリカの(将来の)重要人物とコネクションを持つような人間を、量産することです。これは、カエサル的な分断統治戦略と並ぶ、アメリカの外交戦略における重要な柱です。ジョセフ・ナイ元国防次官補が提唱したソフトパワー論もその延長線上にあります。そうした「建築家的な権力」に僕たちが無防備にさらされてきた結果、特にアメリカから命じられるわけではなくてもアメリカの「ポチ」や「プードル」として行動するように、唯物的に条件づけられてしまっている。そういう人間が日本人の大半になれば、もはや抵抗することはできません。僕がもうダメだと思うゆえんです。

photo

浅田 彰 たしかに、宮台さんの言われたとおり、日本が一見自由に国益を追求しているようで、アメリカがつくった枠組みの中でアメリカの盛ったメニューを選ばされる、建築から牛肉までほとんどそういう形になっていると思います。
しかし、それに対してナショナリスティックに日本の独立性を主張しても仕方がない。非常に原理的なところに戻って言えば、最終的にはやはり宮台さんの言われた自治と補完という原則に還ることですね。まずはでき得る限りフェイス・トゥ・フェイスの次元で事を収めていく。それで解決できない問題は少しずつ上の次元で扱う。国家でダメなら国家の上の単位まで行ってもいい。現にEUの場合は、国家の主権(ソヴリンティ)を相対化しつつ、それぞれの自治単位でやれることをやり無理なことを上の単位で扱うという補完性(サブシディアリティ)の原則を打ち出しているわけです。アジアでは冷戦がまだ終わっていないので具体的にAUのようなものを構想するのは難しいけれど、長期的・原理的な問題としては日本もアジアでそういうことを考えておくべきでしょう。
 その上で、そういうネットワーク的なものの原理に関する問題があります。たとえば、さっきも言った「第三の道」の唱道者であるギデンズとか、あるいは産業社会からリスク社会への移行を分析するウルリヒ・ベックのような社会学者は、再帰的(反照的)近代化、つまり近代の近代化ということを言っている。近代化は古い封建社会を壊し大家族も壊して、資本と労働の二大階級や核家族をつくってきた。しかし、近代社会がさらに近代化されると、資本対労働や核家族といった構造さえ解体され、もっとバラバラな流動性の高い状態が生まれる。あえて強引にパラフレーズすれば、それを前提とした上で自覚的に社会ゲームをやろうというのが、再帰的近代化論ですね。たとえば、家族が壊れたとしても、自覚的に家族ゲームをやろう、本当の家族でも他人でもいいから自ら選んでゲームをやろう、と。いったん壊れた古いものには戻れないし、戻れたと思ってもゾンビみたいなものになりかねないとすれば、壊れたことは認めた上で、バラバラの個人が市場で互いを蹴落とすだけではなく、あるいは国家幻想に不安な自己を託すのでもなく、バラバラなもの同士で社会ゲームをやってみよう、それが古い近代に替わる「第二の近代」だ、と。もちろん、この考え方は、そういう社会ゲームを自覚的に選択する主体の自己決定能力を高く見積もりすぎているきらいがある。ただ、まずはそれでやってみる、ダメならどんな条件を整えればいいかを考えるという方向は、確かにあり得るでしょう。
 その話に唐突につなげると、田中康夫という人はポストモダン消費社会の申し子として登場し、コミュニティも家族もくそもない、すべては等価だというアノミー状態を引き受けるところから出発しつつ、だけどバラバラのまま皆が不安を抱えて互いに蹴落とし合ったり強者に自らを託したりするだけではダメだろうということで、いまいわば自治ゲームをやっている。「結局こんなのゲームだから」と考えてるようにも見えるんだけど(笑)、だからこそ逆に粘り強くゲームをプレーできているとも言える。また、支持者もそういう自覚的なプレーヤーとしての田中康夫を支持しているんじゃないかと思うんです。


宮台真司 僕も続けて褒めたいんですが、いいですか(笑)?

田中康夫 いいけどさ(笑)。

宮台真司 その後で答えが欲しいのでお願いします。僕は、田中さんは、特に若い人、あるいは女の人を中心とした年長者に非常にわかりやすい行動モデルを示していると思うんです。いま浅田さんがおっしゃったように、我々は過剰流動性にオロオロしてオールマイティな強いものを呼び出すという図式になっている。それは実存のレベルでいうと、不安ベースの生き方、あるいは不安であるがゆえの不信ベースの生き方だと言えます。これは監視カメラとか自警団とかに結びついていくようなものです。そういう生き方ではない積極的な行動モデルを皆に示している政治家や文化人が、日本では非常に少ないわけです。
 僕は、フランス元大統領のミッテランを見習えとよく言ってます。彼には50人の愛人がいた。メディアはそれを知っていたけれど、改めて取り沙汰するまでもないので黙っていた。ところが、ミッテランの葬式のときに彼がその50人の愛人の席順を決めていたことがわかり、これをメディアが報じたところ、没後のミッテラン人気が急上昇したんですね。つまり、そこまで人々の幸せを考える「幸せベースの男」なのか、と。僕は、これはフランス的なるものの民度を改めて高らかに喧伝する逸話だと思いますが、田中康夫さんにはミッテランに近いものがありますね。冒頭で触れていただいた文章にも書きましたが、僕は田中さんが最初の長野県知事選挙で当選した後、長野に行って主婦たちに話を聞きました。なぜ下半身中傷ビラを70万枚も撒かれた……。


田中康夫 いえいえ、100万枚らしい。今でも田中を山国から追い出したくて仕方がない守旧派県議のお仲間たちが必死になってね(苦笑)。

宮台真司 100万枚(笑)も撒かれた田中康夫に入れたのか、と。主婦たちの答えは、昔だったら田中さんのような不潔な人には入れなかった、でも1990年代のブルセラ・援交的な時代を経て、私たちの考え方も変わったんだ、と。それこそ堅気で一穴主義で人を幸せにできない男よりも、多穴主義でも多くの人を幸せにできる男のほうがいい、現に人を幸せにする力があるから多穴主義でやっていけるわけでしょう、と。そんな感じで田中さんを皆さん褒めていたんです。特に女性たちの民度上昇は著しいと思って感心した憶えがあります。
 まぁ、残念ながら、そういう女性たちを含めて今回の総選挙では小泉自民に入れるようなことが起こった。ポピュリズム選挙などと言われていますが、実際に起こったのは浮動層の取り込みです。野党である民主党や社民党や共産党の基礎票はほとんど変わっていない。自民党の基礎票も前回総選挙と比べた場合には変わっていない。ただ違ったのは、前回選挙に行かなかった都市無党派層が今回は投票に行って、そのほとんど全員が小泉自民に入れたということです。僕がずっと取材してきたようなギャル連中も10人中9人が小泉さんに入れていた。ヘタレではない自立志向のギャルたちさえ小泉に入れたという部分で僕は頭を抱えたわけですが、それはともかく、田中康夫さん的な行動モデルがやはり一般化していないからこそ、小泉純一郎のごときが偉丈夫に見えてしまうという残念ながら非常に貧しい現象が展開したのだと思っています。


田中康夫 プロレス中継上がりの人が今最も戦争に持っていくTVニュースショーをやってる六本木にある局で、僕が昔、南美希子と「OH!エルくらぶ」って番組をやっていたときは、彼女はまさに僕の葬式の席順は知ってましたね(笑)。うーん何て言うのか、結局、田中康夫ってサーヴィスなんですよ。これは昔、香山リカが書いていたのだけど、僕は昔から、人にどう喜んでもらうか、決して阿(おもね)るのではなく、一緒にどう向上というか成長するためにサーヴィスするかを考えている、と。両性具有的なサーヴィスの感覚。多分そうなんだと思いますね。
 だから、田中康夫は文章のなかで自分を「田中康夫は」とフルネームで述べたりするでしょ。でも、それは最近の「私的には」といった単純な傍観者化ではなく、主体でありながら客体でもあるという。僕が長野で日々、実践していることもベースは同じ。先ほどの浅田さんの話じゃないけど、闘っている田中康夫という存在を愉しんでいる田中康夫が居るんだね。
 その意味では、信州での改革の表層だけを換骨奪胎的に模倣して、「ミーイズムな民(みん)」としての自分の幸せを得るために霞が関官僚と小泉・竹中コンビが同衾している感じがあるんですね。結果として痛みを伴う未来への改革じゃなく、改革を伴わない未来への痛みになっちゃってる。なのに人々は、派閥政治の打破といった表層にばかり囚われて、その先に訪れる「ハードワーク」な戦前・戦中化に気づかない。やっぱりマゾの時代なんですね。
 実際、僕のように予算を組む立場に立つと、ITとか環境とか、そうしたものがすべて妙な利権となって新たな公共事業につながっていることが強烈に実感されます。たとえば製鉄メーカーや造船メーカーのような重厚長大産業がなぜ生き延びているかといえば、新たな環境利権があるからです。そういう日本メーカーがつくるガス化溶融炉なんて、実はその彼らが台湾やカナダや韓国で造るプラントと比較すれば、土地代別でも3倍のコストとかになっている。ところが、環境とかITという言葉を出されると皆がそれに関してはハコモノ行政と思わないわけです。
 でも本当であれば、お金をかけるべきは他のところにある。たとえば汚水処理であったり電線地中化であったり、と。一例を挙げると、長野県に下條村という、峰竜太の親戚の伊藤喜平という村長のいる村があります。ここは下水道の普及率はゼロ%で農業集落排水の普及率もゼロ%。下水道というのは国土交通省の所管で、農業集落排水というのは下水とほぼ同じものを農林水産省がやっている。その両方がゼロ%です。ただし、環境省の合併処理浄化槽というものの普及率は98%なので、下條村は下水道率ならぬ水洗化率では県内でベスト三に入る。伊藤村長は下水道率という言葉に惑わされてはいけないと言うわけですね。下水道や農業集落排水は集落がいかに点在していようが全国で同規格のものをつくろうとする。つくるときは国から7割お金がくるけれど、今後は維持費ですべての自治体が苦しむことになる。下水によって汚物にまみれていくわけです。だから、伊藤村長は集落が点在している自分の村では合併処理浄化槽を個々の家でやったり、集落単位で処理槽をつくろうと、それに対して村はインセンティヴを与える、と。僕はこれこそが自律だと思うし、新しい公共事業のあり方だと思うんですよ。でも、小泉的なものはそっちには行かず、住基ネットやガス化溶融炉のような新たな利権にお金を使っているのね。



●消費社会の影

田中康夫 それから宮台さんから先ほど出たアメリカに関するお話は、宮台さんが語るからこそ皆も頷けるんだけど、他の人が語ると単なるアメリカ陰謀説になりかねない。そこが宮台真司の宮台真司たるゆえんだと思うけれど(笑)。
 で、アメリカと僕の関わりに触れておくと、文藝賞をもらった僕の『なんとなく、クリスタル』は江藤淳にずいぶん褒められたんだけど、それについて加藤典洋というあまりブリリアントとは言えない人が、アメリカなしではやっていけない日本というものを初めて書いた小説だから江藤が認めたんだと言ったわけ。僕と同時に中平まみという人が『ストレイ・シープ』という作品で文藝賞を取ったんだけど、それらに見られるのは豊かな戦後世代が語るようになったということだ、と。豊かな戦後世代というのは極めて物質的であり、精神的にはアメリカを取り入れた世代ではないか、と。
 ただ、僕は実は『なんとなく、クリスタル』の一番最後の注に合計特殊出生率と老人の医療費、それから国民健康保険の数字の表を入れているんですよ。このことに言及したのは、当時「ワシントン・ポスト」の記者だったミセス・チャップマンという人だけ。彼女は記事のなかで、少子高齢的に急速になっていく日本の社会において、同じ黄色い顔をして、同じような収入、同じような家族構成、同じような生活状況の人が、身の回りのこのブランドとか、この学校とか、この車とかによってアイデンティファイしている哀しさを田中は描いているのではないかと書いたわけ。そうしたアイデンティフィケーションが果たして今後も続くかどうか定かでないこと、都市や集落から温もりがなくなったことを、ブランド等の記号を一つ一つ書き込むことで描いているんではないか、と。
 また江藤淳は、僕と同時期に出てきた村上龍を否定的に評するんだけど、それは村上龍がいわば二項対立的なところで、つまりフェンスの外側からフェンスの内側に入ればチューインガムのみならずドラッグまでもらえるという社会に沿って作品を書いていて、それが江藤淳からするととてもずるいサブカルチャーのように見えて反発をしたんじゃないか。一方で僕は、すべてのものは消費されていく、でも消費されてもなお生き続けるためには自主自律や自己責任を持たねばならない、と言っていたと思うんですよ、いまから自分で振り返るに。その点をかろうじて江藤淳が評価したんじゃないか。精神的ブランドに依拠して生きている他の文芸評論家たちは、物質的ブランドを通じて都市を描こうとしたなんてとんでもない、と。それを認めるのは自分が発展途上であると認めることだから、感情的に反発したんだと思うんです。

photo

浅田 彰 その時点で言うと、一方で村上龍とか山田詠美という人がいて、これは要するに米軍基地の文学ですね。アメリカに占領されている、ある意味でレイプされている状況を、生々しい生理感覚を通して描く。これは、ある意味で大江健三郎なんかの延長上にあるもの、それをポップ化したものとも言えるかもしれない。ところが田中康夫の場合はそうじゃなくて、あくまで日本の消費社会の表層を唯物論的に描いているんだけれども、そこに宮台さんの言うような意味での不可視のフレームワークとしてのアメリカの影が出てくる、その辺を江藤淳は評価したのかもしれませんね。


●自律できなかった日本の消費者

田中康夫 自主自律ということに関して言うと、ダイエー創業者である故・中内功についてちょっと触れておきたいと思います。僕は先日、彼のお別れ会というのに行ってきました。神戸市西区にある流通科学大学で行なわれた学園葬です。中内功とは僕がまだ三十代前半だったころからの縁です。毎月のように会って話をしたり、一緒にいろいろな流通現場に行ったり、ダイエー社員とディスカッションをしたりしました。ただ、あるときからある事情で彼は僕と会うことをやめてしまうんですけれどもね。
 中内がダイエーをつくった根底には戦争体験が深く関わっています。自分の目の前で多くの戦友が死ぬのを見た。「突撃」の一言で勇敢な人ほど死んでいった。自分は卑怯未練で生き残った。そのことへの後ろめたさを心に抱いてずっと生きていたんです。その彼が、よい品を誰でも・いつでも・どこででも欲しい量だけ買える仕組みをつくる、選べない社会から選べる社会へと人と物の関係を変える、当たり前でなかったことを当たり前にして、その当たり前を維持する、それが私の考える流通革命であると言っていた。そして生ある限り日々の暮らしを自分の目で見つめ、自分の買いたい品を自分で選ぶことの重要性を物やサーヴィスの提供を通じて訴えていきたい、と。なぜなら、人々の日々の暮らしが姿を消し「お国のために」が前面に出てきたときに戦争が始まったからだと彼は言うわけです。
 もしかすると、中内というのはM&Aをやっていてホリエモンや三木谷の先駆者じゃないかと言う人も多いかもしれない。だけど、中内がそうした経営者と明らかに違うのは、すき焼きを腹一杯食いたいとの一念で地獄のような飢餓戦線から生還し、食いたいものが食える社会をつくろうと決意・実行したことです。その超リアリズムの旗印が主婦の店ダイエーだった。つくる側、売り手側がこの牛肉は美味いよと勧める、主婦が自分の口に合うかどうかで買う買わないを決める。些細なことだけれど、日々の暮らしのなかでそうした主体性をもって商品を選択し、結果に責任を持つ。この自主自律、自己責任の原則こそが大事だと彼は考えていた。それがひいては、大和魂があれば何でもできる式の精神主義の蔓延を防ぎ、世界の孤児への道を二度と歩まない基盤になると言っていたんですね。これは長野県に於ける原産地呼称管理制度や安心・安全・正直な温泉の表示認定制度の発想とほとんど同じなんです。つまり、インフォームド・コンセントをしたうえでインフォームド・チョイスをしてもらうという。
 ところが日本では、消費者が生活者として主体的に考え、発言し行動するようにならなかったんです。つまり、ジョン・F・ケネディが提唱した「安全を求める権利」「知らされる権利」「選ぶ権利」「意見を聞いてもらう権利」という消費者の四つの権利を有効に生かすようになれなかった。それゆえに、中内は最後は消費者が見えなくなったと言ったわけですね。いつでも、どこでも、誰でも欲しいものを欲しいだけ買えるようにという中内の目標は、消費者に自主自律の精神が欠けていたため、単に欲しいものだけを欲しがることになってしまった。それは、先に話の出た「ゆりかごから墓場まで」が崩壊していったことと似ています。そうした福祉に甘えるだけじゃなく、そのなかで自主自律、自己責任ができればサッチャリズムにいかずにすんだかもしれない。そのことに無自覚だった人たちが、自らサッチャリズムを招いてしまったんです。中内は主婦の店に期待したんだけれども、消費者たちは実は中内ほどの意識にはならなかったんですね。


宮台真司 それにはたぶん二つの大きな理由があると思うんです。まず一つは、田中康夫さんが知事になる前に「マニュアルからレシピへ」という言葉で表現されていたことと関連します。田中さんの言葉は、情報に依存して右往左往するのではなくて、自分の内発的な感受性を信じる態度を重要視しなさいというメッセージです。このメッセージが日本の社会では残念ながら広くは流通しなかった。要は「美味しいものを美味しい」と言えるような自分自身の物差しが、他者の物差しへと、先ほど言ったようにアーキテクチュラルに取り替えられていったということが、まず一つあります。
 あともう一つ、インフォームド・コンセント、あるいはインフォームド・チョイスの「インフォームド」の部分が、日本ではおざなりだったことです。例として再びBSE問題を挙げます。実はアメリカに全頭検査を求めるのは科学的にはあまり意味がない。より意味があるのは特定危険部位の除去で、もっと意味があるのは混合飼料の分離、つまり肉骨粉の完全禁止です。けれど両方ともアメリカでは実現していない。肉骨粉を牛に与えることは禁止されましたが、豚や鶏には完全にOKだから、放牧がメインのアメリカでは牛が豚や鶏の餌を食べてしまう可能性が高い。また特定危険部位の除去も、複数の内部告発で知られる通り、まともになされていないでしょう。たとえ内部告発がなくても、一頭当たりにかける特定危険部位除去の作業時間から容易に推測できます。日本では1分以上なのが10秒だったりするのですから。そういうことを全部知りながら、外務省が描いた「これは外交マターだ」というスキームのなかで、2004年秋にはBSE牛の輸入解禁が決まっていたわけです。
 つまり、ここには「インフォームド」がない。全頭検査などは国民の気を鎮めるための気休めで、本当の問題がどこにあるのかを日本のマスコミは長らく報じなかった。問題が手打ちになった後の段階で、政治的な意思決定にもはや影響がないと踏んだのでしょう、日本のマスコミも『ニューズウィーク』などに触発されるかたちで「これはまずいぞ」と一年遅れで言い出す。そこには「アメリカ政府のケツを舐める日本政府・のケツを舐める日本のマスコミ・のケツを舐める日本の民衆」という図式があります。「ケツ舐め連鎖」背後には、記者クラブ制度があり、放送免許制を規定する放送法があり、新規参入障壁になる宅配制度がある。日本じゃ、インフォームドされていない人間が、自分にとって最適な選択をせよと呼び掛けられる。できるわけがないんです。かくのごとく、「取り替えられた物差し」と「インフォームドされていない自己決定空間」の中に我々がすでに生息してしまっている。そのことが田中康夫さん的な理念の実現可能性を失効させているんです。
 先ほど浅田彰さんがおっしゃった再帰的近代──たとえば自分の感情的安全を保障してくれる人間関係やローカリティを人為的に選択して築き上げるという本来なされてもよい振る舞い──すら、実はいま述べたのとまったく同じ理由で困難になっています。それは「ポストフォード主義」の問題と密接に結びついています。先ほど田中さんがおっしゃった「何が美味しいか」といった自分の内発的な味覚を信頼するコミュニケーションではなく、「何がイケているか」とか「何が自分らしいか」というような「自己実現の幻想」が我々を支配するようになっているわけです。フランスのレギュラシオン学派の人はそういう傾向を、肯定面と否定面をあわせて「ポストフォード主義」と呼んだんですね。
 浅田さんも少し触れられたフォード主義(フォーディズム)とは、大量生産体制がメインの重化学工業中心的な近代過渡期における人事管理や組織構成の原理で、「構想と実行の分離」、つまり「頭を使う人」と「体を使う人」を分離する枠組みです。これに対してポストフォード主義は、多品種少量生産&高付加価値社会がメインのサービス&情報産業中心的な近代成熟期における人事管理や組織形成の原理で、「構想と実行の一致」、即ち、末端に至るまで創意工夫を通じた仕事での自己実現を目指してもらうという図式です。多様な豊かさへと通じる道だという意味では肯定できますが、アメリカ的なものに無防備にさらされる社会構成に通じる道だという意味では肯定できません。
 具体的に言うと、まず政治面では、利益団体主義的なコーポラティズムから、優勝劣敗的なネオリベへの優先順位の変化があり、経済面では、ケインズ的な修正資本主義から、米国的なグローバル化のなかでの生き残りへの優先順位の変化がありました。こうした優先順位の変化ゆえに、「仕事での自己実現」や「消費での自己実現」──これらは情報的幻想のなかで生じるわけですが──が万人にとって最も重要でクリティカルな課題であるかのように推奨されはじめます。こうした自己実現幻想の中を生きる限り、残念ながら我々は永久に「仕事での自己実現」や「消費での自己実現」を幻想的に目指し、オートマティックにアメリカのつくり上げたプラットホームの上で踊ることになるわけです。
 その意味で言うと、土着的なものや伝統的なものがバラバラになった後、それと機能的に等価な人工物をどう再帰的につくり上げるべきかを考えるときですら、実は田中さんのお嫌いな『アエラ』のような雑誌が振りまく情報的幻想に囚われざるを得ないんです。となると、「再帰的近代における主体的選択」と「ポストフォード主義体制下での従属的選択」とが、ないまぜになってよく識別できないことになります。レギュラシオン学派におけるポストフォード主義評価の両義性もそれに関わります。そこでは「二項対立をとりあえず前提しつつも、信じない」といったタイプのディコンストラクティヴな振る舞いが要求されます。そのためには、自分の外にあるものに依存せず、自分の頭で考えたり行動したりする自立の習慣を、取り戻さねばなりません。

photo

田中康夫 僕は湾岸戦争のときに「嫌米」ということを言ったんだけど、それは別に嫌いだからもう会わないという意味じゃないんです。つまりゼロサムじゃない。人間というのはファジーな部分がとても大事です。つまり好きか嫌いか、あるいは安心か安心じゃないか、心地よいか心地よくないかといったことは、その日のお天気だったり、そのときの生理状態だったり、睡眠状態だったりで違うものなんですよ。それこそがまさに人間の人間らしさであるわけだし、同時にそこに暗黙知というものもあるわけです。その意味でいうと、嫌米というのは別にアメリカなしでやっていけないことへの諦めにつながるものではなく、アメリカやその他のものも含めて、ともに向き合わなければやっていけないということです。まぁ、向き合うことぐらい辛いことはないわけだけど、それは仕方ない。鎖国していれば別かもしれないけど、そうじゃないわけですからね。
 そのうえで、今、我々がすべきことは、たとえばウィンドウズXPとリナックスの両方を使って改革するようなことだと思うんです。僕はウィンドウズ型のいい意味でのリーダーシップ、パブリック・サーバント・リーダーというものを意識しているし、その反面で分散型のリナックス的社会、つまりサッチャリズムとは違う意味でムダを廃そうとしている。小さな政府とかではなく、北欧やアイルランドみたいなこぢんまりとした小さな国家のようなものになって、地域ごとに閉鎖するのではなくリナックス的に一人ひとりが自主自律していこう、と。普通ならそんな二つは同時に稼働せずフリーズしちゃうんだろうけど(笑)。でも、やりようによっては十分に可能なんです。そういう点は、頭でっかちな教養とは無縁なおじさんやおばさん、子供なんかのほうがよほどわかってくれる。だから、そういうことを僕はやっていこうと。こうして社会に奉仕することが楽しいからやってるわけでね。



●古代ギリシア的自律の可能性

浅田 彰 田中康夫という人は、いわばサッチャーと初期ブレアがやろうとしたことを同時にやるというか、とくにギデンズの言った「第三の道」のようなことをしなやかなネットワークみたいな形でいろいろ構想していこうとしている。しかも、必ず唯物論的なディテールから、しかも自分のフィーリングでわかるところから積み上げていこうとしていて、それが宮台さんの言う「民度の高い」女性層などに支持されている理由なのではないかと思います。
 さて、そろそろ全体のまとめを考えなければいけないんだけれど、最初から危惧されたとおり、全員が言いっ放しでまとめようもない(笑)。それで、全体的なことについてもう一つだけ補助線を引いておきましょう。
 先ほど言ったように、ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的な<他者>がすべてを律している、つまり個々の人間にとっては他律(ヘテロノミー)ということになります。その次のディシプリンというのは、もはや神とか王とか父はいない、だけど、個々の人間が規律・訓練を通してそのような他律を体に叩きこまれ自分で自分を律するようになる(「経験的=超越論的二重体」としての「主体」になる)状態です。そこに現れるのは自律――ただし内面化された他律としての自律なんですね。しかし、すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように、幸か不幸かディシプリンはもはや機能不全に陥り、いまや、主体化されない人間たち、バラバラのボディ・パーツの集合、一瞬一瞬で移ろう解離した感覚の束みたいな人間たちが、アノミーに近い状態で浮遊している。となると、情報ネットワークでそれらを直接に監視/管理するほかないということになり、これがコントロールと呼ばれるわけです。子供がキレるというなら、ディシプリンによってモラルを内面化するのはもう無理だから、金属探知機でナイフを取り上げろ、あるいはもっと広く宮台さんが言われたような意味でのアーキテクチュラルな枠組みの中に囲い込んで、本人が快楽を求めて行動することが自ずと秩序に同調するような形にしておけ、と。ともあれ、ディシプリンがうまくいかなくなればコントロールしかないということになり、それがセキュリティ神話と結びついて、自然現象から社会現象に至るまですべてを情報ネットワークでコントロールしよう、監視し管理しようということになるんですね。
 そうした状況に対して、古い他律的な秩序――国家に、あるいは家父長制的な家族やコミュニティに戻れるかといえば、戻れるわけがない、戻るとしたら最悪のゾンビに出会うしかないということははっきりしている。じゃあ、もう一回ディシプリンによって自律を生み出せるか、あるいは再帰的に自分で自分を律し社会ゲームをやっていけるかというと、それもなかなかうまくいかないだろう。ここでちょっと面白いのは、フーコーが晩年に考えていたことです。彼は1970年代半ばまでソヴリンティからディシプリンへの移行を系譜学的に分析し続けてきたんだけれど、急に長い沈黙に入る(講義や言論活動は続けるものの、大きな本の出版を中断する)。そして1984年にはAIDSで死んじゃうんだけれど、死の直前に出た最後の2冊の本(『性の歴史』II・III巻)では、とつぜん古代ギリシア・ローマに戻って、「自己への配慮」とか、自分自身を芸術作品としてつくり上げていく「生存の美学」とかいうようなモチーフを、そこに見出そうとするんですね。フーコーはそこに本当の自律を見出そうとしたとも言えるでしょう。さっき、ディシプリンによって生み出される自律は、内面化された他律としての自律でしかない、と言った。そこでのパラダイムはカントだけれど、それはサドと背中合わせになっている。いわば法と侵犯という図式で、法の絶対性とそれを侵犯することの絶対性が見合うようになっているわけです。ところが、キリスト教以前の古代ギリシア・ローマには、性の問題に関しても、そういう厳格な法はほとんどない。法のないところで、自分が好きなことをして、しかし行き過ぎると自分にとってもおぞましい結果になってしまうから、自ずと程を得たところに行き着く、それが自律だと言っているわけです。法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ、と。ずいぶんきれいごとめいて聞こえますが、フーコーはハードゲイSMの実践者で、晩年はとくにアメリカのゲイ・コミュニティにひかれていったんですね。SMというのはまさに法に対する侵犯でめちゃくちゃなことをやっているように思えるけれど、それはヨーロッパのキリスト教国でのイメージ、まさにカント/サド図式にそったイメージでしかない。そういう禁止から解放されたところでは、好き放題やれるわけだけれど、フィスト・ファックとかもやっているわけだから、本当に好き放題やったら死んじゃう(笑)、むしろ、だからこそ、非常に繊細な自他への配慮、苦痛を与えることがお互いにとって快楽になるようなある種の技術というのが必要になるわけです。たぶん、フーコーは、そういう現代のアメリカと古代のギリシア・ローマを結びつけながら、自律――しかも他律(法)の内面化ではない自律を考えようとしていたのではないか。
 これはもちろん「皆でハードゲイSMをしましょう」という話ではないですよ(笑)。ただ、古い伝統や秩序には戻れない、カント的な自律的主体にも戻れないとして、しかし、自由に欲望を解放することが必ずしもアナーキーに行き着くとは限らない、むしろ、自由にやっていることが自らにとって本当に快楽であり続けるためにはそこに自ずと秩序みたいなものが出てくるはずだということを、晩年のフーコーは考えていたのではないか、と。それは、期せずして、田中さんや宮台さんの言われたこと、行われてきたこととも、何らかの共鳴点を持つのではないかという気がします。


宮台真司 浅田さんがおっしゃったことに少しつけ足しをしながら、大事なことをお話ししたいと思います。手前みそですが、僕も2000年に書いた『サイファ覚醒せよ!』という本以降、初期ギリシア的なものの再評価というハンナ・アーレント的な振る舞いを──『人間の条件』とか『精神の生活』的なことをやっています。ところが、とても重要なことは、フーコーが理想化したようなギリシア社会というのは、ペルシア戦争に勝ったアテナイがパルテノン神殿をつくった頃が全盛期なんです。それから50年くらいたつとアテナイはスパルタとの戦争(ペロポネソス戦争)に負けるんですが、その頃にはアテナイはずたずたになっていました。
 初期プラトンは初期ギリシア的な「超越への依存」「神への依存」「理屈への依存」をいさめるソクラテスを全面的に推奨していましたが、アテナイの疲弊を前提にして、後期プラトンになると「哲人君主」とか「イデア」という概念を持ち出して、「人間の内発性」や「生存の美学」に任せていればうまくいくといったヴィジョンを放棄していくんです。素朴な言い方をすれば「実存の次元」と「社会の次元」が分化(ディファレンシエイト)してきてしまう。浅田さんの言うすぐキレる少年や少女たちも実は内発的に生きているかもしれないが、これと既存の社会が両立しない。だから監視カメラや電撃ネットワークで取り囲んで、彼らが快・不快原則に従うことがオートマティックに社会秩序を産出することにつながるようにドゥルーズ的コントロールをしようというのが今日のあり方なんです。
 最近も女子高生が母親をタリウムで殺しかける事件がありました。多くの人は動機を理解しようとします。でも僕が以前から言っているように詮無い話。いまや多くの犯罪は「我々の物差し」からすると「感情が壊れた人々」によって行なわれるので、理解できません。しかし「感情が壊れている」と判断する「我々の物差し」も先験的ではなく経験的なものです。既存の社会性を前提にした投射(プロジェクション)です。僕が子供のとき、カブトムシに爆竹を巻きつけて爆破できるヤツとできないヤツがいました。それと同じことが昨今はカブトムシ対象ではなくて人間対象に起こっているわけです。人間に爆竹を巻きつけて爆破してバラバラにできるヤツとできないヤツがいると。それだけなんですね。
 そのときに「彼らの物差し」と「我々の物差し」のどちらが社会的なものであるかを巡って闘争が起こるようになります。どちらかの感受性の物差しを持つ立場が、自らの優越権を主張して、他方を囲い込んでいこうとする。僕自身の好みとしては、内発的な振る舞いがとりもなおさず社会性を帰結するような時代に──それこそ「戦いこそがエクスタシー」といったファランクス(集団密集戦法)的ギリシア戦士に──戻れたらいいなと思います。けれど、実際にはもう我々の社会はそういう風にはなっていない。なので、そこでフーコーは「美学」という言葉を晩年に使ったのだと思いますね。


浅田 彰 僕はフーコーを弁護する気もないし、彼が何か新しい社会システムのようなものを提示しようとしたとも提示しえたとも思わない、それがまず美的なスタイルの問題として提示されているのも確かだと思います。ただ、一つだけ付け加えておくと、彼は古代ギリシアの全盛期を考えていたのではなく、古代末期を考えていたんですね。偉大な哲学も終わった、社会秩序も失われつつある、そんな古代末期にあって、エピクロス派とかストア派とかいった人々が、法のないところでの自律というアート(技術=芸術)を考えていた。フーコーはそのあたりに焦点をしぼっていたわけです。それは現代ともつながるところがあるように思いますね。
photo

田中康夫 なかなか難しくてわかりにくいんだけど(笑)、中沢新一という人がかつて大好きでよく使っていた言葉に「テクネ」と「ポイエシス」というのがあるんです。で、テクネって実は技術じゃない。芸術とか造形ってことなんですね。じゃ、ポイエシスって何かというと、これは造作ということ。で、オートポイエシスというのは生命システムですよね。で、このオートというのは自動ではなく自己です。社会というものも、自己で生命システムが製造されていく循環型社会が望ましいと僕は思います。それにコミットする気持ちをどれだけ皆が持てるかということが、まさに真の意味でのリナックスだし、サッチャリズムやレーガニズムが来ない、あるいは体制翼賛が来ない社会の基本だと思います。
 その意味でいうと、僕たちが党名に「新党日本」と付けたのは、何かといえば日本だとか国家だとか言っているけれど、本当は何の覚悟もない、おそらく徴兵制になって戦争となれば最初に逃げていくような人、つまり最も臆病な人たちへのアイロニーとしてなんです。


宮台真司 あえて不人気なことを言いますと、僕はある種のエリート主義が必要だと思っているんです。なぜかというと、今、田中さんのおっしゃった「社会性と矛盾しないような内発性」を多くの人に抱いて欲しいと願っているだけでは誰も抱かないからです。しかも、それを抱いてもらいたいアイロニーから「新党日本」とか言うと、そこに恣意性が如実に表れて、「なぜそれが日本なんだ、この野郎」というバカが必ず出てきてしまう(笑)。そうした状況の中では、まずエリートがアメリカ流の建築家的権力の仕組みを学び、若い連中が内発的に振る舞うと自ずと社会性を再生産する循環の枠組み内部にとどまるような、そういう生育環境を周到に設計主義的に達成していくしかないだろうと考えています。

田中康夫 ある意味でのエリートは必要だよね。宮台さんが以前言っていたエドマンド・バークという人は、単に何かを守るのが保守じゃない、人々が不満を抱くより先に、先見性のある人たちが、あるべき社会や直すべきものを提示していくべきで、それこそが民主主義を守る真の保守だと言っているわけです。それはとても大事なことだと思います。

【以下、会場との質疑応答】

会場 移民の問題についてお聞きしたいと思います。七月のイギリスのテロとか、あと最近のフランスでの暴動とかで、移民がヨーロッパで問題になっています。日本もこれから移民を入れることになると思うんですが、その点に関してお考えがあったらお聞きしたいんですが。

田中康夫 それは奥田碩さんのような最も移民を多く受け入れている企業の方にお聞きになるといいと思うんだけど(笑)。彼らに足りないことは、歴史観とかそういうのじゃなくて、さっき言ったテクネやポイエシスをどうとらえるかということなんです。それなしに単に経済合理性に則ってプロダクツをつくっているんですね。移民に関しても経済的な必要性からどれだけ入れれば大丈夫だとか何とか言っているようでは本質的じゃないでしょう。
 たとえばスイスという国は、いわゆるメイドさんとして海外から来る人たちは、居着かれると困るから家族がいてはダメだし、三カ月か六カ月の滞在の後は就労期間の更新は絶対にさせないわけですね。それは、ナチスに協力をしたスイスならではの狡猾さかもしれない。そこまでの狡猾さを日本が持つならばともかく、単に数値目標のようにしてやるとすれば、果たしてどれだけの覚悟が奥田碩さんも含めてあるのか。まぁ植民地の人に国籍を与えるということをしてきたフランスなんかとはずいぶんベースが違うと思いますよ。ただフランスもいまの内相であるニコラ・サルコジはちょっと私はアホッチだと思っているけど(笑)。


宮台真司 ただね、それがけっこう問題で、単にサルコジをアホッチと言えない重要な矛盾があるんです。たとえばEU統合のときに、域内自由化をするか否かで英仏の間に論争が交わされました。イギリスはEUに参加する条件として域内自由化を求めたわけです。これはアメリカ流グローバル化に対してはEUが域内自由化をしない限り経済的にとても太刀打ちできないという唯物的な条件があったからです。ところがフランスやオランダをはじめとするEU内各国の国民にとっては、それ自体がグローバル化に見えてしまった。域内自由化はアメリカ流グローバル化とどこが違うのか、と。もちろんそこには反ユダヤ主義やトルコ人差別が動員されたりもしましたが、抽象的には根本的な問題があるわけです。
 日本が経済的なサヴァイヴァルを期するとき、当然ながら経済水準を維持するために移民受け入れの数値目標を達成すべきだという議論が出てきます。これは正当です。経済水準を達成しようとすれば、移民を導入する必要があるのは自明だから。しかし、それが流動性の上昇ゆえに、反グローバル化の動きと同様の動きを国内で引き起こす。それが亜細亜主義的な開放性につながるよりも、一国孤立主義的な閉鎖性につながる可能性が高いんです。日本でもサルコジのようなポピュリストが出てきて、人々の不安を自分の人気に結びつけようと浅ましい政策をとる可能性が高いんです。そうした連中が実際にポピュラリティゆえに政治的実権を握るでしょう。これを回避するのは構造的問題であるがゆえに非常に難しい。我々は「豊かな生活」を維持したい。と思いつつ、そのサイド・エフェクトとして出てくる「流動性ゆえの不安」も鎮めたい。するとポピュリストに縋ってしまう。
 さすがにフランスの民度と言うべきか、最近はサルコジの個人的人気は急落しつつあります。ただ彼の政策自体はまだ支持されています。この分裂の中に、構造的矛盾が反映しているんです。なので、数値目標はいかんとか、戦略的に仲よくすることは大切だと言うのも重要なんですが、構造的な矛盾、中長期的な矛盾をどうやって政策的に手当てし、エリートが問題を解決していくのかという点が非常に重要だと思います。


浅田 彰 フランスは他者も受け入れてきたとかいって威張っていたけれど、ざまあみやがれ――と、アメリカはいまそう思っているわけです(笑)。アメリカは、良くも悪しくも「帝国」と言われるだけのことはあって、メリットクラシー(能力主義)でどこから来たヤツでも成績さえよければどんどん奨学金を与えて上へ引き上げていく。よく考えてみれば、1960年代の公民権運動からわずか40年たらずで、二代続けて国務長官がアフリカ系、しかも今はアフリカ系女性なんだから、たいしたものといえばたいしたものですよ。その背景にマイノリティに対するアファーマティヴ・アクション(積極的優遇策)などの積み重ねがあることは言うまでもありません。それに比べ、英米型の多文化主義に対して同化主義をとるフランスは、移民も国籍をとれば共和国国民だとか口ではきれい事を言うけれど、だからこそ同等に扱うべきでアファーマティヴ・アクションのような特別扱いはすべきでないということになり、その結果が、貧しい移民の子どもたちが教育課程からも雇用からも落ちこぼれて行き場がない、永遠に郊外の低所得者住宅から出られないという現状であるわけです。つまり、シンボリックな平等を唱えるだけで、宮台さんの言われた唯物論的基礎が欠けているわけですよ。それで、移民の側からも、シンボリックな主張ではなく、ほとんど理念なき暴力的行動が出てきてしまい、また権力の側からも、それを悪用するサルコジ的ポピュリズムみたいなのが出てきてしまうわけですね(サルコジは共和国の理念を振りかざすシラクに対抗してアファーマティヴ・アクションの必要を説いたりもしているわけですが)。このようなフランスの現状からは学ぶべきことがたくさんあると思います。グローバル化が進む中で日本でもどこでも移民が増えていくのは必然ですから。

会場 憲法九条の改憲の流れがかなり出ていますけれど、お三方の考え方というか、ヒントみたいなものをいただけたらなと思います。よろしくお願いします。

浅田 彰 僕は簡単に言って、反対です。

宮台真司 僕は簡単に言って、賛成です(笑)。

田中康夫 どうして賛成なの?

宮台真司 さんざん言っていることなんですが、簡単に言えば、対米追従に歯どめをかける橋頭堡を築くための改憲が必要だろうと。先ほど浅田さんもおっしゃったし、僕も言った主権移譲のメカニズムを憲法に書きとめようということです。憲法と国家安全保障基本法のカップリングによってそれをするのであれば、条件つきで憲法改正に賛成であると。というのも、朝鮮戦争の勃発した1950年以降、日本はすでにアメリカへの兵站提供を横須賀港で行なってきています。それを正当化する理屈は「横須賀港の出航段階ではアメリカ軍の作戦を聞いていないので、戦闘地域に向かうとは認識していなかった」というものです。あるいは、アメリカによるアフガニスタン攻撃の際、インド洋に燃料補給用の日本艦船を提供したとき、トマホークを撃つような艦船に燃料を提供するのは共同作戦行動、すなわち集団的自衛権の行使ではないかという疑問が、国会で中谷防衛庁長官に呈されました。すると彼は、トマホークは遠隔操縦兵器なので、発射段階ではどこに着弾するか定かでなく、定かでない段階での燃料補給は兵站提供ではない、という爆笑を誘う答弁をした(笑)。さすがに後で訂正したようですが。いずれにせよ集団的自衛権の行使は絶えず行なわれてきているし、その相手はアメリカでしかあり得ないわけです。こうした図式を憲法第九条が現に50年以上も抑止できていない以上、これを抑止できる条項を加えるに如くはなしということです。

浅田 彰 議論する時間がありませんが、そもそも、現実がこうなっているんだから建前だけ言っていてもしようがない、法律も現実に合わせるべきだ、とは僕は思わないんですね。法律なんで建前なんだから現実とずれているのは当たり前です。しかし、憲法九条という建前があるおかげで、とりあえず戦後60年間、日本が戦争に深く加担せずにこられたことは事実でしょう。だから、二重基準と言われたって平然とやり過ごしていけばいいじゃないか、と。
 ただ、改憲全般に関して言えば、まず天皇制をやめて、とりあえず共和制にすべきだとは思います。さしずめドイツ風の象徴的大統領制ぐらいにしておけばいい。そうすれば皇居で鬱病に苦しんでいると言われる方の問題も自然に解消するのではないかと思いますけれど。


宮台真司 それであれば、憲法改正には賛成ということですね(笑)。

田中康夫 僕は、とにかく条例とか法律をつくれば必ず抜け道が出てくると考える立場です。それは風営法に対する風俗産業なんかを見ればわかる(笑)。冒頭で言った凱旋門の周りの信号の話じゃないですけど、なるべく決まり事なんて少ないほうがいい。やはり人の心構えをどこに置くか、それが大切でしょう。たしかに九条二項は現実と矛盾しているかもしれない。でも、九条二項を書き換えれば現実に則していくのかといったら、そうはいかないかもしれないでしょう。
photo

宮台真司 ただそれは、やはり背景が問題なんです。たとえば小泉が出てくるまでは「ダーティなハト」が日本の主導権を握っていました。ところがいまはそうじゃない。

田中康夫 でも、宮台さんの論でいくと、結果的には小泉、安倍に加担した社会学者として後世に名前が残っちゃうかもしれないよ。

宮台真司 それは憲法改正の中身によりますよね。護憲なんて言っていたって、どうせ陳腐だと思われて勝ち目はない。だからどうやって護憲するかじゃなくて、どうやって改憲するかを論争するしか勝ち目がないんです。ただ、それをめぐって言えば、浅田さんと僕のように認識の近い人間が憲法改正をめぐっては分岐するという、この状況が実はいいんです。それがまさに戦略的コミュニケーションの道筋を自分たちで考えるということにつながるからです。つまり、浅田さんと僕は今日も皆さん聞いておわかりになったように認識は非常に近い。しかし、憲法改正をめぐって立場が正反対に分岐するのは、戦略の立て方が違うからです。となれば、どちらが有効かという問題から議論すべきでしょう。理念として正しいから追従するべきだというような話ではない。戦略として、どういう帰結をもたらしたいのかに応じて、コンストラクティヴな話から始めるべきだと思います。

田中康夫 そもそも憲法ってアメリカが初めてつくっちゃったようなものであって、ヨーロッパ社会において憲法なんて概念がいつからあったのという。

浅田 彰 イギリスは今もないですね。

田中康夫 そうすると、憲法というのはそれこそ浅田さんや宮台さんが言った、人を管理していくものじゃないのか。で、それによって管理し切れると考えることこそが、海で溺れてもいまだに元気なおじさんの言葉を使えば共同幻想じゃないのという話になると思うんですけれど。

宮台真司 でもそれは歴史を踏まえない議論ですよ。なぜイギリスに憲法がないのかというと、貴族たちのノーブル・オブリゲーションとジェントルメンズ・アグリーメントがあるからです。さきほど「ゆりかごから墓場まで」という話が出ました。これはイギリスにおける救貧法の伝統を指します。救貧法の伝統とは、簡単に言えば、貴族が救貧院や孤児院を作って弱者の面倒を見てきたという歴史です。それは、貴族が「自分はヘタレじゃない」「浅ましい人間じゃない」ことを示そうというギリシア的に言えば「名誉に向けた動機」を持つことに根ざします。そういう動機を持たない国では、残念ながら人々は浅ましく振る舞うし、統治権力も浅ましく振る舞います。それに歯どめをかける工夫が、憲法なんですよ。

浅田 彰 とにかく最初から言っているように、今日の話をまとめることは不可能なので、このように、あるところでは合致しつつ、あるところでは違っているのが、逆にいいのではないか、と(笑)。

田中康夫 それがユナイテッド・インディヴィジュアルズということだよね(笑)。

浅田 彰 このあたりでとりあえずの締めくくりとしましょう。アジアと日本の問題など、積み残した案件もたくさんありますから、また、こういう話を続けていく機会が持てればいいんじゃないかと思います。今日はどうも長時間ありがとうございました。

宮台真司 こちらこそありがとうございました。

田中康夫 ありがとうございました。

(了)


【付記】
浅田 彰 これは浅田彰・田中康夫『「ニッポン解散」続・憂国呆談』(ダイヤモンド社)と北田暁大・宮台真司『限界の思考』(双風舎)の刊行を記念して2005年11月14日に八重洲ブックセンターで開催された公開鼎談の記録である。宮台真司氏の参加する同時期に刊行された書物として東浩紀編『波状言論S改』(青土社)を付け加えておくべきだろう。
 ちなみに、『波状言論S改』を担当した青土社の編集者からこの本が送られてきて、2005年12月25日に紀伊国屋書店で開かれる刊行記念シンポジウムへの参加要請があった。この要請は受けなかったのだが、同書148ページに鈴木謙介氏の発言として「浅田(彰)さん的なお金の動き」という言葉が出てくるので(「ハイカルチャーのほうがカネが回るに決まってる」ので、それに対して東浩紀はサブカルチャー方面に舵を切った、それを「東(浩紀)はカネが欲しいからおたくに近づいた」などと言われるのは真実とは逆だ、という東氏の発言を受けて出てくる)、「お金の動き」と言うに足るものを作り出した覚えのない私としては、「浅田さん的なお金の動き」というのが具体的に何を指すのか鈴木氏から説明していただきたいむね同氏に伝えていただくよう、編集者に依頼した。残念ながら、今にいたるまで回答はない。そこで、この場を借りて鈴木氏への質問を繰り返しておきたい。「浅田さん的なお金の動き」というのは具体的に何を指すのか。