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【*浅田・注】
デリダの死後、京都大学で鵜飼哲・柄谷行人と三人で行なった「Re-membering Jacques Derrida」と題する追悼シンポジウムの記録を再構成したものが、『新潮』2月号に掲載されている。
なお、このシンポジウムの記録を勝手に文章化したものが「はてなダイアリー」の中の「Vrai-Faux Passeport」というページに載せられていたので、雑誌掲載の後、次のようなコメントを送った。(ただ、このページには「はてなダイアリー」の外部からはコメントを書き込めず、書き手であるdetheoria氏の名前も連絡先もわからないので、「はてなダイアリー」に参加している知人を経由した投稿という形を取らざるを得なかった。)
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私たちの座談会に関心を寄せていただき感謝します。ただ、このところ公開の催しでよく言っていることがあります。「この種の催しの後、記録や要約を勝手にネット上に発表する人がいるけれど、できれば公表は控えてもらいたい。もとより、著作権を強く主張するわけではないし、公表を現実に抑止する力もない。ただ、もし自分が著述家だったとして、自分が即興的に話したことが勝手に記録され、チェックすることも修正することもできないまま聞き間違いや誤解などを含む形で公表される[そして悪くするとそれがまた別のところで引用され論じられる]という事態を考えてみれば、それがいかに困ったことかは想像に難くないはずだ。公開とはいえライヴのイヴェントだからこそ言えることもあるのだし、むしろ、疑問や異論があればその場でぶつけるようにしてもらいたい。」デリダ追悼シンポジウムの当日にはこのことは言いませんでしたが、この座談会についても同じことを言わずにおれません。とりあえずの「決定版」が『新潮』2月号に掲載されたことでもあり、あらためてご検討ください。そもそも、これだけの記録に費やされたエネルギーを、もっと生産的な形で活用する機会はなかったのでしょうか。
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このコメントには私のメール・アドレスも記しておいたのだが、直接のレスポンスはなかった。他方、このコメントが投稿されたあと、「Vrai-Faux Passeport」には「とりあえずの『決定版』」の掲載された『新潮』2月号が「絶賛発売中」として紹介され、その上で「悪意を持って、間違いや歪曲などをふんだんに含む形で、また、それが別のところで引用され論じられる、という悪循環を、恣意的に狙ってアップロードされたものに間違いありません。だけど、それが多かれ少なかれ、情報一般に伴う条件であることも心に留めつつ、時間に余裕のあるかたは、各々の批判的読解能力を試してみてはいかがですか。『決定版』による答えあわせをお忘れなく。」という記述のもと、追悼シンポジウムの記録を関西弁に変換したものが重ねて掲載されるに至った。洒落た対応をしたつもりなのだろう。私はもう一度だけ下記のようなコメントを寄せようと考えた。
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シンポジウムを勝手に記録したものが公開されるというのは、画家の展覧会を勝手に模写したものが公開されるようなもので、それに基づいてそのシンポジウムや展覧会のことが論じられるとすればやはり問題でしょう。たとえば印象派の展覧会のカリカチュアが当時の新聞に出たように、カリカチュアにしてしまえばいいだろうという考え方もあるでしょうが、それはディーセントな対応とは言いがたいものです。
そもそも、「情報一般に伴う条件」といいますが、誤解や誤配は「情報一般に伴う条件」だから不可避だし、それでいいのだ、と言い切ってしまうとすれば、それは安易な居直りでしかないでしょう。(デリダに即して言えば、徹底的に正確に読もうとするにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそ、どうしてもズレが生じてしまう、簡単に言えばそういった問題を考えているのであって、安易なコピーが氾濫しオリジナルが雲散霧消していくのが「情報一般に伴う条件」としての「散種」だ、というようなことを言っているのではありません。)とはいえ、私は、旧来のような著作権法や編集・校閲システムなどによって縛りをかけるのがいいと思っているのではなく、できれば個人の自律と、相互のフランクな意見交換によるチェックによって、最低限の情報の正確さを保っていければ、それに越したことはないと思っています。先のようなコメントを送って自省を促したのも、そのためです。
ついでにいえば、デリダ追悼シンポジウムで私はジョルジュ・ディディ=ユベルマンとジェラール・ワイクマンの論争に触れましたが、「Vrai-Faux Passeport」の「痕跡」展に関する記事でもそれについての誤った記述が見られます。ディディ=ユベルマンの企画した「刻印」展(1997年)にはアウシュヴィッツで撮影された写真は出ていない。それは「収容所の記憶」展(2001年)に出たもので、そのカタログにディディ=ユベルマンの寄せたテクストをワイクマンらが批判することになる。私の発言を正確にフォローすれば、それに関して誤解が生まれる余地はないはずですし、本来ならば、問題になっているテクストや展覧会カタログを自分でチェックして確認してから、それについて書くべきところです。旧来のアカデミック・トレーニングのシステムや編集・校閲システムの下では、それがpublicationにあたっての当然の手続きでした。繰り返しますが、そういうシステムによって縛りをかけるべきだと言っているのではありません。そういう反動的な主張に対抗するためにも、ひとりひとりがもっと正確さを期して責任をもった発言をすべきだと言っているのです。
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ところが、「はてなダイアリー」のメンバーである知人は、このコメントを重ねて代理投稿することを断った。むろん、それは当然の権利である。同時に、彼は、私が自分のウェッブ・ページをもって、そこにこのようなコメントを書き込むよう示唆したのだが、自分のことを人に知らせたいというコミュニケーション欲求がきわめて低く、そもそも怠惰きわまりない私としては、自分のウェッブ・ページをもつなどということは論外である。そこで、たまたまこのページの更新時期だったこともあり、一般性のある話題でもあると思えたため、ここに注として書き込んでおくことにした。確認するが、私がdetheoria氏に悪感情などもっていないことは言うまでもない(だからこそ直接レスポンスができるようにしたわけだし、今もそれがいちばんいいと思っている)。彼のページだけが問題なのではなく、ウェッブでよく見られる情報のルースな取り扱いが問題なのである。
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