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●朝鮮半島の混迷

相変わらず進展がない北朝鮮問題だけど。
まぁ、金正日のかみさんが重病になったり、側近とされる金容淳が交通事故で死んじゃったりと、いろいろ話題は提供してくれるけどね。しかし交通事故で死ぬ人の多い国だぜ(笑)。
訪米した元朝鮮労働党書記の黄長 が言ってたでしょ。金正日はエリート層三〇〇人ぐらいを掌握してるだけで非常に脆弱な体制だ、と。その指摘は正しいと思う。そうしたなかで「病死」や「交通事故死」が続いてるのを見ると、もはや末期症状なんじゃないかな。
じゃあ、そこでどうするか。黄長 が言うように、どんどん圧力をかけて崩壊に導くという手もあるかもしれない。だけど、それはやはりリスキーに過ぎるんで、戦争を避けることを最優先に考えるなら太陽政策しかないと思うよ。現に、米朝不可侵条約までいかなくても六カ国協議で「安全の保障」を文書化してくれれば核武装計画を中止してもいいっていうふうに軟化してきたわけだし。
だから、韓国の盧武鉉大統領が言ってる内容自体は正しいんだ。ただ、やっぱり盧武鉉は、就任早々に「『脱・記者クラブ』宣言」や検察改革を打ち出して、マスコミと司直を敵に回してしまった。やり方が上手くないんだよね。それゆえ側近が大手財閥SKグループから受けた不正資金疑惑で窮地に追い込まれ、国民による信任投票を、なんて話になってきてる。でも疑惑を追及してた野党のハンナラ党だって、実は同じところから一〇〇億ウォンも貰っていたことがバレちゃった(笑)。喧嘩両成敗だよね。
韓国は、ついこの間まで軍事政権に近かったのを、金泳三、金大中でここまで来て、盧武鉉はさらにインターネット草の根民主主義みたいなところまで行こうってわけでしょ。ものすごいスピードで激変してるわけで、当然、古い部分と新しい部分の摩擦が激しくなる。そういう意味で言えば、ここで古い膿を出しきって、本当の新しい政治を生み出すところまで持っていければ、盧武鉉も大したものだけどね。
他方、金正日もホントにバカだと思う。あいつが突っ張れば突っ張るほど、日本をはじめとする諸国の強硬派が力を得るだけ。拉致被害者やその家族なんて北朝鮮に置いておいたって仕方ないんだから、全部帰しちゃえばいいんで(もちろんまず法的・倫理的にそうすべきだけど)、そうすりゃ日本の世論はぐっと軟化するのに。
北朝鮮に関連して言うと、六本木ヒルズの森美術館がオープンして「ハピネス」展ってのをやってるの。小難しい前衛の苦悩はもう終わった、みんなで白痴的にハッピーになろう、と(笑)。それで古今東西の美術品をごたまぜにした展覧会をやってるわけ。でも、なかなか面白いセクションもあって、そのひとつでは、アメリカの消費社会を代表するジェフ・クーンズの作品なんかと並べて、ロシア、中国、北朝鮮の作品を集めてる。そのうちロシアと中国の作品は、社会主義のプロパガンダ・アートのキッチュなパロディ、資本主義的ポップ・アートの社会主義版としてのソッツ・アートなの。ところがその横にある北朝鮮の作品は完全にマジなんだよね。「あり余るポテト」っていう絵と彫刻で、豊作の喜びが朝の光の中でバーッと描かれてたり、木彫で克明に彫ってあったりするわけ。これらを並べて見るとちょっと残酷な感じがするんだな。ほとんど同じことを、ロシアと中国のやつはパロディとしてやってる、だけど北朝鮮のやつはマジにやってるか、マジであるふりをさせられてる。まぁ、六本木の超高層ビルの最上層の美術館でその区別もわからずに見て喜んでる日本のおのぼりさんも何なんだと思うけどさ(笑)。

●中国との付き合い方
中国の河北省と長野県が友好提携二〇周年ってことで一〇月の終わりに中国に行ってきたの。上海から入ったんだけど。
上海ってシュールでしょ。とんでもない超高層ビルがダース単位で建ってるんだよ(笑)。森ビルもあるけど、あそこではぜんぜん目立たない。
対抗心が旺盛なのか、もう一本、建てるらしいよ森ビルは。で、上海の中心部には伊勢丹もあって、上位三%の所得の連中を対象に商売してるんだとか。ヴィトン、エルメス、グッチ、カルティエ、ヴェルサーチとすべて路面店を出してる。驚いちゃうよ、誰が買ってるんだって話でさ(笑)。タックス・フリーにならないから日本人観光客ってわけじゃない。内陸と沿海だけでなく、上海の中でも貧富の差は激しいね。
それで上海から河北省に行ったの。省といったって人口が九〇〇〇万人もいる。省都の石家庄市だけでも一〇〇〇万人。東京と同じなんだ。で、省長や人民日報の元社長だった共産党書記なんかと会談した。でもね、こちらが周恩来の発言を引用して「小異を残して大同につこう」とか「過去の歴史を見詰めた上で」とか言っても、周りの若いスタッフ連中は「ふん」って顔をしてる。驚いたぜ。経済至上主義だね。
その後、北京に行って人民大会堂で全人代(全国人民代表大会)副委員長の王兆国とも話をした。でも、武漢の自動車工場で 小平に見出された、と言われてる彼なんぞが言うのも、結局は数字でこれだけ伸びてるって話ばかり。役人っぽいんだ。こちらが大局的な話をしても全然だめ。
たしかに北京と深 を結ぶ高速道路なんて、四車線の素晴らしい代物なわけ。そういうのに日本のODA(政府開発援助)が使われてるんだね。欧米を真似して、インターチェンジ周辺の植栽も庭園みたいだった。日本の戦後五十数年を僅か一五年くらいで行っちゃってる感じ。で、彼らは日本を物質主義的には追い抜いていく。
でもその一方で、河北省のはげ山で植林をしてくれというので見に行くと、そのあたりは貧しいアフリカの部族のような家に住民が住んでる。しかも、そこでは車から下ろしてくれない(笑)。だけど、本来はそういう地域の人々の最低限のクオリティ・オブ・ライフのためにこそ、今後はODAを使うべきでしょ。ビルや高速道路、IT特区とか宇宙船とか、そんなものに使わせていいのか。ほとんど日本より凄いじゃないか、と。国内ではひも付き補助金で利権分配する悪しき日本は、海外援助に関しては、良い意味でのひもすら付けない。
結局、日本がきちんとした歴史の総括をしていないから、どんどん金を取られてるんだね。もちろん石原慎太郎のように中国へのODAは必要ないというのは余りにも粗野な発想なんだけど、実際問題としてODAの形は変えていかないとダメだよ。夜郎自大な害・無能省(外務省)の単なる自己満足に終わってる。

たしかに、中国にも問題がある。特に若いエリート層は猛烈に傲慢になってて、自己懐疑ってものがまったくない。中国は世界一だ、日本なんか属国だ、ぐらいに思ってるわけよ。だけど、そこでまた日本が石原慎太郎みたいに被害妄想で逆上するのは最悪なの。昔、日本が加害者だった経緯もあるんだからさ。むしろ、日本は、それこそ真のゴーマニズムで、先進国としての余裕をもって鷹揚に対応したほうがいい。それで、田中さんの言うように、本当に貧しい部分に届くような援助や、先進的な環境対策に通ずるような援助を、NGOなんかも活用しながらやっていけばいい。
そうなんだよ。周恩来とか 小平みたいなフランスに留学して弁証法を身につけたような政治家がいなくなり、官僚的発想の集団指導体制と言えば聞こえはよいけど、早い話が金しか尺度を持たない単純政事屋になってきたんだから、こっち側がそういう論理でいけばちゃんとイニシアティヴを握れるわけよ。良い意味での遠隔操縦でさ。今度は、こっちがフランス人的タクティクスを持たないと。
しかし全体として言うと、日本人の中国や朝鮮に対するある種の民族感情が、石原慎太郎あたりをはけ口にして爆発してる。向こうの傲慢とこっちのルサンチマンが悪循環を起こしてるんだな。
朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もあるというのに、日本人は蔑視するんだね。まあ、防衛庁長官で拉致議連のメンバーでもある石破茂みたいに、何故か九二年に金日成の生誕八〇周年祝賀式典へ参加して、オンナ、オンナと平壌で朝鮮対外文化連絡協会(対文協)の接遇員に要求したと囁かれるラヴリーな御仁も居るけど(笑)、これは例外。他方で、何故か中国に関しては平山郁夫、井上靖、司馬遼太郎なんかの影響で、日の丸・君が代の保守派にすらシルクロード幻想がある。だから共産主義や社会主義はけしからんと言っている連中でさえ、中国を後押ししちゃう。困ったもんだ。
シルクロードと言わずとも、歴史的にずっと中国文化の影響下にあったんで、妙な憧れをもっちゃうんだろうね。だけど、現実の中国は問題だらけ。チベットに対して中国がやってることなんて、パレスチナに対してイスラエルがやってることとあんまり変わらないよ。それについては石原も言ってるけど。
チベットに対する中国の姿勢がけしからんのは、当たり前。これこそ、ODAを継続する条件として、日本は強く主張すべき。国内の公共事業は霞が関からの天下りや族議員と昵懇な特定業者の優遇といったひも付き補助金なのに、国外は無条件で大枚を投じちゃう矛盾。まあ、石原の場合は、仮に中国が親石原だった場合でも、チベットでやっていることを批判できるのかって話だね。
あるいは、ミャンマー(ビルマをミャンマーと呼ぶべきだっていう軍事政権の主張を安易に認めたのは問題なんだけど)の軍事政権がアウン・サン・スー・チーに対してやってることはいいのか、と。日本は、あの国に対する最大のODA供与国なんだから、もっと圧力をかけるべきだよ。
ホントだよね。
ともかく、東アジア全体で言えば、中国がキーであるには違いない。北朝鮮問題だって、中国が日韓と協力して金正日体制に引導を渡すようにもっていくのが理想なんだけどな。まあ、中国は朝鮮戦争であれだけの犠牲を出したわけだから、特に人民解放軍はなかなかうんと言わないだろうけど。
●イラク復興援助という暴走
イラク問題でも日本はめちゃくちゃだね。自衛隊も派遣しよう、復興援助にも五〇億ドルも出そうってんだから。
これも実にひどい話。繰り返すけど、日本の場合、地方への補助金はひもつきODAなのに、外国に出すときはひもも条件も何もつけない。戦争に最後まで反対していたフランスやロシアは、このままアメリカ中心で統治してたら内紛状態が悪化して、更にイラク市民に犠牲が出るから、国連で話し合おうと言ってるわけだ。だけど、米英が勝手に始めた戦争の後始末に、金は出さないよ、とね。二百歩譲って、日本も仮に出すなら、その一〇分の一くらいの金額で、本当に人道的な部分に限定して出すべき。薬とか洋服とか食糧とかさ。今のままじゃ、アメリカのミサイル代を立て替えているようなもんだ。

あれだけイラク戦争に積極的だったイギリスでさえ九億二〇〇〇万ドル、スペインも三億ドルしか出さないんで、五〇億ドルというのは異常な突出だよ。これで明らかに、アメリカに次ぐ敵国としてイスラム圏で認知されるね。
やっぱり一番いけないのは外務省。本当に一度解体しないとダメ。やつらは単に国連安保理の常任理事国になりたいだけ。そんなことで日本を売り渡す外務省なんて本当にクソだね。こうして戦争は、制服組ではなく背広組が始めていくのさ。
しかし、国連すらイラクから撤退するっていうのが現状でしょ。実際、イラク情勢は悪化の一途をたどってる。リドリー・スコットがソマリア紛争をテーマに撮った「ブラックホーク・ダウン」じゃないけど、ブラックホークをはじめとする米軍のヘリコプターが次々にミサイルで撃墜されるってんだから、これはもう戦争だよ。フセインがまだ生きてて米軍への攻撃を指揮してるって報道さえあるんだからね。
で、フセインがいるらしき村を全部包囲したんでしょ。村の周りにレーザー・ビームを張ってさ。でも、効果の程は定かじゃない。
タカ派的に言うと、やっぱりパウエル型の一気投入・早期撤退という戦略しかなかったんだよ。いま一三万ぐらいの兵力でやってるところを、いったん五〇万でも一〇〇万でも入れて武装解除を徹底し、六カ月なり一年なりでぱっと引いて、後はイラク人政権に任せる、と。ところが、ラムズフェルドは、少ない兵力でもハイテクと特殊作戦で勝てると言って、現に勝つには勝ったわけだけど、十数万程度であんな巨大な国の秩序を維持するのは無理なんだよ。でも、いま増派すると、ラムズフェルドの顔がつぶれるばかりか、来年の大統領選挙にも影響するから、それはできない。むしろ一〇万まで減らすって言ってる。それではジリ貧じゃないか。もはや抜き差しならない状況だと思う。考えてみれば、アメリカが軍事的にイラクに勝ったっていうような意味ではヴェトナムでも勝ってたわけで、いまのイラクのように泥沼化したあげく総体的に「負けた」わけでしょ。それに近い状況になってきたんじゃないかな。
いずれにせよ、米英の暴走は中曽根が危機感を表明するぐらいのものだったし、現に国内で反動が来て、ブッシュとブレアは苦境に立たされてる。ところが小泉はどこまでもブッシュについて行って、カネだけじゃなく自衛隊まで出そうっていうんだから、実に危ないね。

小泉は何も考えてない。だから小沢は完璧に小泉のことバカにしてるよ。小泉でも首相は務まるのだから、菅でもダイジョウビ、って科白には嗤ったけど(苦笑)。
他方、一〇月の終わりに英独仏の外相が揃ってイランに行ってハタミ大統領と会った。その結果、イランも一応ウラン濃縮を中止する、IAEAの査察を受け入れる、と。で、実際に査察してみたら高濃縮ウランが見つかったんだけど、少なくともそれがオープンになったわけだし、今後はやらないってことになったわけだよ。むろん、最高指導者と称するハメネイのような保守派は内心面白くないと思ってるだろうけど、英独仏の外相が揃って来るとなるとハタミの顔を立てざるを得ないじゃない? こういう手法は、イラクや北朝鮮にただちに適用できるわけじゃないにせよ、参考にはなると思うよ。
ちなみに、ノーベル平和賞がイラン人女性で人権活動家のシリン・エバディって弁護士に与えられた。明らかに政治的な選択だし、イラン政府は不快感を表明してるけど、結局は受け入れざるを得ないわけでしょ。そうやって少しずつ状況を変えていけばいいんじゃないかな。
●二三年目の生坂ダム殺人事件
一九八〇年に長野県の生坂ダムで見つかった水死体が自殺として処理されたのに、二三年もたってから実は他殺だったと判明した事件があったね。
そう、犯人の男が三年前に別件で入っていた刑務所の中から「おれがやりました」という手紙を安曇野の豊科警察署に送ってきたんだ。ところが「もう自殺にしちゃったから困る」と思ったのか、県警は三年間も黙ってたわけ。二三年前の捜査ミスの問題もさることながら、僕はそっちの隠蔽を問題にしてるんだ。ところが僕が任命した県の公安委員である松本サリン事件被害者の河野義行は、県警に問題はないというわけ。とんでもない話だよ。じゃあ、当時の捜査資料を見る限り、松本サリンの冤罪も致し方ない、と言うのかね。
さらに被害者の代理人で河野の弁護もやっていた永田恒治って弁護士は金銭的な救済措置をしろと言ってきている。仮に公金で支払う場合は、県警の過失が立証されないと、出せるわけがない。だから公安委員会に事実関係を調べるべし、と言ったんだ。ところが、公安委員会は警察の捜査に問題はなかったという。三年前の隠蔽も含めてだよ。信じられないね。
で、またバカなマスコミは田中知事は金も払わないで失礼だと書く。だけど金を払えば済むような問題じゃないだろうって。ところが、そうしたら警察のOB会である警友会が金を払うとか言いだした。金だけ払って一件落着にしようと考えているとしたら、とんでもない。新しく県警本部長に就任した岡弘文は警察庁と連絡を密に取っているんだろうけど、ガラス張りの知事室とは対極の隠蔽主義だねぇ。
まず必要なのは真相を明らかにすることだからね。補償はその後の話でしょ。
当然だよ。
そりゃ公安委員会なんかでも、警察が書類を揃えて出してきちゃえば、それをひっくり返すのは大変なんだろうけどさ。
だけど、再調査すればいいんだよ。そりゃ二三年前の手続きについては調べ直すのも難しいだろうけど、三年前のほうは、なぜ犯人自ら言ってきたのに明らかにしなかったのか、それを追及しなきゃだめだろうって。
ちなみに、犯人が収監されてるところに被害者の母親が会いに行って、会ってしゃべって、それなりに納得したらしいね。よく告白してくれた、と。
で、その後出所したと思ったら、またすぐにそいつ捕まっちまったじゃん。覚醒剤使用かなんかで。なんだか怪しいなぁ。誰かが薬渡して、ハメちゃったんじゃないの(笑)。
ありそうな話。
だから、今度は拘置所の中で死んじまうんじゃないか、と地元のマスコミ連中は騒いでる。警察は恐いよ、気をつけないとさ(笑)。
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◆山形浩生の批判に答えて◆
0:「続・憂国呆談」Web版9月号で田中康夫がビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』(山形浩生訳・文藝春秋刊)に言及したのに応じて私は次のように述べた。「異常気象が人間の活動によって引き起こされたという確証はないよ。だけど、自制して損したという後悔より、もう少し自制しときゃこんなことにならなかったのにという後悔のほうがきつい。だから、やっぱり良識として自制しとくべきなんだ。その本の訳者である山形浩生なんかは、インテリやくざを気取って、『俺は良識派の大学人なんかとは違うぜ』っていうポーズをとりたがるんだけど、ああいう幼稚な自意識って十代で卒業しといてほしいよね」。この発言に対し、山形浩生が『サイゾー』11月号の連載コラム「山形道場」で「地球温暖化をめぐる後悔」と題して反論を書いている。率直に言ってずいぶん幼稚な内容で、再反論するまでもないのだが、誤解を避け論点を明確にするために役立てばと思い、あらためてレスポンスを試みることにした。
1:まず些細な点から。山形浩生はこの発言を「かれ[浅田]が長野県知事とやっている放談シリーズの中でのせりふ」としているが、正しくは「放談」ではなく「呆談」である。すべての発言に潜在的に「(笑)」がつく形で語り呆けながら実は「正論」よりも真っ当な意見を述べるという目論見(むろん必ずしもそれがうまくいっているとは言えないものの)で、こういうタイトルをつけているわけだ。そういう戦略をポストモダンな韜晦として批判するならそれはそれでかまわないけれど、ともかくそれが「呆談」として提示されているということは押さえておいてもらわないと困る。
2:山形浩生による論点の整理は次の通りだ。
a:「通常、[地球]温暖化をめぐる議論としてみんなが考えている選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→マズー
二、二酸化炭素カット→温暖化阻止→地球ひんやり→ウマー」
というものだが、「ロンボルグの本が説明したのは、いまから二酸化炭素をカットしたって、地球が冷えたりしない、温暖化はどんどん続く、ということだ。だから二の選択肢は、実際には存在しない。」
b:「さて、浅田彰がここで述べている[と山形浩生が考えている]……別の選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→はげしく後悔
二、二酸化炭素カット→でも温暖化継続→猛暑に天変地異に水害→でもやるだけやったし、まいっか」
というものだ。
c:「これは最初の選択よりも実態に近いけれど、ひとつ重要なポイントを見落としている。炭酸ガスのカットは、地球の経済成長をかなり阻害するのだ。……だから本当の選択はこうだ。」
「一、二酸化炭素放置→温暖化だけど経済成長→猛暑に天変地異に水害→でもお金があるので対策可能→後悔ほどほど
二、二酸化炭素無理やりカット→でも温暖化継続して経済も停滞→猛暑に天変地異に水害→金がないから対策もできず『結局無駄だった』とはげしく後悔」
そして山形浩生はこの選択のうち「一」を選ぶ。
このうち a についてはおおむね異議はない。しかし、冒頭の引用からも明らかな通り、私は b のような選択を提示しているわけではないし、まして、c で言われているように二酸化炭素排出削減が経済成長を阻害するという「重要なポイント」を「見落としている」わけでもない。というか、これほど核心的な問題を「見落としている」ような論者がいったい一人でもいるだろうか。山形浩生の周辺はいざ知らず、少なくとも経済学の領域ではそれは最初から誰にとっても最大の問題だった。実際、もし経済成長への負の影響を考慮しなくていいのなら、京都議定書をめぐる交渉があれほどこじれることなどそもそもなかっただろう。
田中康夫と私もこの問題を何度も議論してきたが、そこでもこの論点を「見落として」はいない。今ごろ山形浩生に「地球温暖化をめぐる後悔」について解説してもらわずとも、『憂国呆談』(幻冬舎)に収録された1997年10月の対談の「ノー・リグレットのふたつの意味」というセクション(p.304〜305:セクション・タイトルは編集部による)で、私はまさにそのことを問題にしている──いま規制してみても、後で効果がないとわかるかもしれないので、「今経済的にマイナスの効果を被ってまで規制する必要はない」というのがアメリカによる解釈、後で無駄な規制のために損をしたとわかるかもしれないけれど、地球全体にかかわる重大な問題であるだけに、取り返しがつかないことになって後悔しないよう、とりあえず規制しておこうというのがヨーロッパによる解釈、そのうち私はどちらかといえばヨーロッパの側に立つ、と(山形浩生が問題にしている冒頭の発言もその反復に他ならない)。
この整理は「呆談」的に大雑把なものだが(とくにヨーロッパの立場を後者のようにまとめてしまっていいかどうかは問題だ)、とりあえずそれに従うなら、山形浩生はアメリカの側に立っているということになる。むろん、それは一つの意見だし、そこから私の意見を批判するのも自由だ(ただし、山形浩生による c の形での整理はあまりに戯画的に単純化されており、議論の土俵として受け入れられない)。だが、それ以前に、二酸化炭素排出削減が経済成長を阻害するという基本的なポイントを相手が「見落としている」と決めつけ、「地球温暖化をめぐる選択肢を浅田がまるでわかっていない」と断定するのでは、議論のしようもない。相手を(自分並みに?)極端に矮小化してとらえ、それを得々として批判してみたところで、相手を撃ったことにはならないのだ。前に「山形道場」で私が『構造と力』で使った「クラインの壺」のメタファーの誤解に基づく批判が展開された(http://www.post1.com/home/hiyori13/other/asada.html)ときにも言ったように(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html)、この道場主は他流試合を挑むのなら試合(論争)というものの最低限のルールから習得し直す必要があるようだ。
3:さらに、山形浩生は、「良識派の大学人」というのが「流行の『良識』にだらしなくよりかかり、まともな思考を放棄する人のことなら、うん、ぼくは胸を張ってそんなのとはちがう、といえる」と宣言し、自分がそんな大学人でないのは「少しは浅田彰のおかげかもしれない」と言って、私が制作にかかわったTV番組に言及する。「うろ覚えだけど、大学時代に見たテレビ番組『事故の博物誌』で、かれ[浅田]は白いパラボラアンテナをバックに、感情論やイデオロギーに流されず、あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考がえらいのだ、とか語っていた」。これは1989年3月21日にNHKで放送された番組のことで、正確には「事故の博物誌」ではなく「事故の博物館」というタイトルである。
この「事故の博物館」というのはポール・ヴィリリオのコンセプトで、番組でも彼をフィーチャーしたのだが、彼の強調点は、(1)古い人文学ではなく新しい科学技術にこそ重要な問題が賭けられている、(2)しかし、それは人文学の工学への還元を意味するのではなく、むしろ、科学技術の正の面のみならず負の面(事故のような)をもとらえた哲学的考察の必要性こそを意味する、というものだ(ヴィリリオの観点が形而上学的に過ぎてほとんど宗教的になっているという批判はできるだろう)。どうやら、山形浩生は(1)の面だけを見てそれを「工学的な思考がえらいのだ」などという幼稚な形でとらえ、(2)の面をまったく見ていなかったらしい。彼が私のTV番組を見ていてくれたことは光栄の至りだし、映像を担当したラディカルTV(原田大三郎&庄野晴彦)とともにNHKらしくない色彩デザインを主な狙いのひとつとしていた私としてはフロリダのケネディ宇宙センターで撮った「白いパラボラアンテナ」のイメージを覚えていてくれたことを特に嬉しく思うが、肝心の内容を「工学的な思考がえらいのだ」という形に勝手に矮小化してしまい、そう言っていた「浅田彰が……こんなおセンチな『良識』なんぞによりかかった議論をして安穏としているとは。情けない」などと慨嘆されても、それは彼の思い込みによる一人芝居であって私には関係ないとしか言いようがないのだ。
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などというのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。
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